7月5日
 日本神話をひもとくと、その多くが中国・九州地方を舞台に語られている。最近私は日本の神話に興味があり、是非その舞台を訪れたいと思っていた。と、いう訳で、今回は中国、九州地方へ行くことにした。
 7月5日。いつもの通り軽自動車に荷物を積んで昼頃、京都府宇治市の自宅を出た。高速道路を使わず京都から九州へ行くには二つのルートが考えられる。それは瀬戸内側か日本海側か。昼に出発する今回、瀬戸内ルートはひどい渋滞が予想されるので、日本海ルートで行くことにした。国道9号線をひたすら西へ進むと日本海に出る。鳥取砂丘を越えて、右手に青く広がる日本海を眺めながら進むと駐車スペースがあったので休憩することにした。弧を描いて見える水平線。長く連なる砂浜。ここは、あの「因幡の白兎(いなばのしろうさぎ)」の舞台「白兎海岸(はくとかいがん)」だ。
 『そのときはまだ大国主命(おおくにぬしのみこと)は「オホナムチ」と呼ばれるみすぼらしい従者に他ならなかった。ある姫のもとへ求婚に向かう兄弟の大きな袋を持たされて、一行より遅れてとぼとぼ海岸を歩いていると、皮をはがれて裸になった一羽のウサギが痛みに苦しんで泣いているのに出会った。そのわけを聞くと、「そのウサギはもともと壱岐の島に住んでいて、本土に渡りたいと願っていた。 そこで思いついたのはサメを騙すこと。あるサメに、ウサギの一族かサメの一族かどちらの数が多いか数えてみようといって、海に住むサメたちを島から岬まで一列に並ばせてそのサメの上を踏んで数えながら渡ってきた。いよいよ岬に着こうとしたとき、つい得意になってサメたちを騙していたことを告白してしまう。すると、列の一番端にいたサメに捕まって、毛皮をすっかりはぎ取られてしまったというのだ。そして先にこのウサギに出会った「オホナムチ」の兄弟たちが嘘の治療法を教えたため、うさぎは一層痛くなり泣いていたという。」そこで医療の神でもある「オホナムチ」は適切な治療法を教えてやる。そうするとウサギは元の姿に戻ることができた。そして「兄弟たちが求婚する姫はその求めを断ってあなたと結婚するだろう」と預言する』 
 海岸沿いの道をひたすら西へ走る。とても軽快な道が続く。米子市に入る。
 宍道湖の南湖岸を走る道。そろそろ日も暮れてきたので風呂に入ろうと、看板を注意深く探していると「きまち温泉」と書いた文字があった。ここへ行こう、と横道に入っていくとそこは一軒の旅館だった。フロントにいたおばあさんにお風呂のことを聞くと400円で入らせてくれるとのこと。早速着替えを持って風呂場に直行した。
 出雲市街を越えて右折、出雲大社へ向かう。大社前の広い「道の駅」に車を止めて、ここで休むことにした。

7月6日
 いつになく爽やかに目が覚めた。広くて新しい「道の駅」。遠くに出雲大社の白い大鳥居が辺りの町並みからそそり立って見える。大社の方へ向かうと、門前の商店街もまだ早朝のためひっそりとしている。大鳥居を抜け、広い石段の前に車を止め、本殿の方へ歩いていった。玉砂利を踏んで進む。シンとした厳かな雰囲気。神話の故郷としても有名な出雲大社。一般に10月を「神無月(かんなづき)」というが、この地では「神有月(かみありづき)」といって、この月、全国の神々がこの地に集まると聞いたことがある。
 境内は広いのだが、想像とは違い質素でしっとりと落ち着いた神社だな、と思った。太いしめ縄が印象的な拝殿。その奥の本殿もとても古くて歴史を感じさせる。手を合わせて来た道を戻る。さあ、次へと向かおう。
 海岸沿いの国道9号線を西へと向かう。所々止まって海岸線の絶景を眺める。いくつもの町と峠を越えて益田市についた。ここで本屋へ寄ることにした。目的は九州の観光ガイドブックを買うこと、そして山口県のどこかにあるはずの中原中也の記念館の所在地を調べること。中也の記念館はぜひとも行ってみたいと思っていた場所なのだ。萩市に入り262号線を南下し山口市へ向かう。
 山口市の湯田温泉というところに記念館はあった。中也の生家に建てられたというコンクリートで打った新しくモダンな建物。平日ということもあって入館者は少なく、じっくりと展示物を見ることができた。
 高校の頃、国語の授業で初めて中也の詩を読んだ。「朝の詩」。音楽を聞くような心地よいリズム感と、頽廃的な内容がその頃の気持ちとマッチして、自分はすぐにその作家のファンになった。そしてときには自分でも詩を作るようになった。記念館の二階に中也の一生を綴ったビデオが流されていた。中也は京都にも住んでいたようで、下宿付近の現在の様子が映し出されていた。そこは母親の実家のすぐそばで、そんな意味からも中也と京都を結ぶ線が私に一層親近感を持たせた。その記念館には一時間ほどいた。それから近くのファミリーレストランで昼食をとり、小野田市の方へと向かった。
 随分と探してやっとその場所に着くことができた。ある雑誌に載っていた風景。それは、夕焼けの中、古い電車が小さな駅を離れていく場面だった。それを見た瞬間、是非ともここへ行ってみたいと思った。JR長門本山駅。その場所が目に飛び込んできたとき、懐かしさでいっぱいになった。当然自分はここへ来たことはない。しかし、その囲いのない小さな無人駅は日本人なら誰もが郷愁を感じるに違いない。車を停めて駅舎に行くと先客が一人いた。その人はビデオで駅舎のあちこちを撮影している。車を降りて辺りを眺める私にその人は声を掛けてきた。「どこからきたんですか」という問いに「京都です」と答えると、その人はひどく驚いた様子で、「この駅もずいぶん有名になりましたね」と言った。「日曜日なんかは鉄道フアンでいっぱいなんですよ、もう5分もすると来ると思います」。その人の言葉通り、その古いチョコレート色の車両は線路の先、木々が茂るカーブからゆっくりと姿を見せた。一両きりの電車。駅へ着くとその電車から女子高生らしい1人と、鉄道マニアが2人降りてきた。先ほどの人と一緒に車内に入った。なんとレトロな雰囲気。座席の枠や床、柱なんかも木でできている。年限をえて茶色に光る車内は、上品な骨董品の家具を見るようだ。運転士さんが寄ってきて記念乗車券を下さった。もらって嬉しそうにしている僕らをにこやかに見る運転士さんも、この車両に深い愛情をもっているに違いない。この車両はクモハ42型制御電動車といって、現在現役で動いているのは全国でこの区間を走る2両だけということだ。この長門本山駅から雀田駅の2.3qを5分かけてゆっくりと走る。一時間に一往復する路線。すると車両が動き出した。私は先を急ぐので乗らなかったが、その人は車両に乗り込んだ。
 そこを後にして九州へと向かう。国道9号線を進み関門トンネルを抜け、すぐに左に折れて10号線を南へ走る。ひたすら幾つもの町と峠を越えた。辺りはもう真っ暗。ある峠道を走っていると、広い駐車場に食堂があり、大きな手書き看板で「天然湯・赤松温泉」と書いてあったので立ち寄ることにした。明らかにそこはトラックの運転手のたまり場という感じで、飾り気のない建物が印象的だった。値段を聞いてみると300円ということで、早速お金を払って入っていくと、屋根は大きなテント、風呂場も鯉が泳ぐ池のようでとても広い。脱衣場と風呂場は仕切りが無く、風呂場から着替えている人がそのまま見える。便所が外にしかないのに気づき閉口したが、少しがまんして服を脱いだ。5.6人の先客は、だまって湯船に浸かる人、ここの常連なのか世間話をしている人もいる。最初少し違和感を感じた私だったがすぐにとけ込んで湯船に全身をつけた。疲れが全身から抜けていく。さっぱりして外へ出ると、一台のマイクロバスが入ってきた。○○高校野球部と書いてある。練習が終わってみんなで風呂に入りに来たのだろう。
 その峠を後にしてしばらく走ると別府の町についた。今日はここで泊まる予定にしていたのだが、適当な場所が見つからないまま市街地を通り過ぎてしまった。すると海岸線を通る自動車道になり、Uターンする場所を探すうちに大分市に来てしまった。これはまずいと、別府の方へ引き返す。しかし、この道が良かった。フロントガラスから見える別府の町が夜の闇にキラキラと輝いて、まるで自分の身体が夜空を飛んでいるように感じるほど、美しい印象深い道だった。
 別府市内の海岸寄りのある公園に車を停めてそこで泊まることにした。

7月7日
 朝起きると、別府湾は朝のさわやかな空気に包まれていた。しばらく海辺の公園を歩く。ジョギングやウォーキングする人が通り過ぎる。別府の町に目を移すと、温泉の白い煙が立ちのぼっている。車に戻り、左右に温泉旅館が立ち並ぶ道を内陸の方へと走っていった。海地獄、かまど地獄などと書かれた看板が建っている。左右にうねる急な坂道。新緑の木々が覆う道を行くと広く開けた所に出た。なだらかな山並みが緑に染まっている。一見芝生のように見える山肌だが、近づいてみると雑草がぎっしりと生えている。火山の硫黄分のせいか、高度のせいか、このあたりの山にはあまり高い木々は生えていない。峠を越えなだらかな道を走っていると左手に駐車場があったので止まることにした。そこから眼下に広がるのは湯布院の町。朝霧に煙る町並みはとても風情がある。そこには湯布院狭霧台と書いてあった。そこを下ると湯布院の町である。しかし道路沿いの街並みはどこにでもある地方都市の様子だった。観光地特有の街並みは、その道からは少し離れたところにあるのだろう。町を抜けるとまた峠への登り道になる。その頂上あたりにドライブインがあって、そこを左折すると「やまなみハイウェイ」という道が続いていた。この道はここから久住山、阿蘇へと続く一般道だが、約60q以上幾つもの峠を越えながら見晴らしのいい、気持ちのいい道が延々と続いている。日本国中色んな道を走ったけれど、これほど気持ちのいい一般道はない、と言えるほどこの道は爽快だった。峠にはきまって展望台があり、度々車をとめて景色を眺める。正面に久住山が白煙を上げている。その山に向かってまっすぐと道が続いている。まるで日本ではないような錯覚におちいるほど雄大な景色。その久住山の登り口は広い公園になっていて、車を停めて休憩することにした。トイレがあったので入ってみると、なんと紙がない。車に取りに戻り無事に用を済ますことができた。車での旅の必需品はなんといってもトイレットペーパーだろう。特に今回の九州での旅にはそれを痛感した。「道の駅」にはきれいなトイレが24時間使えるようになっていて、紙もほとんど完備している。しかし、本州に比べて九州は「道の駅」の数が少ないように感じるのだ。トイレも所々にあるにはあるが、それらはおうおうにして汚く、まず紙は無いと考えた方がいい。夜にカギをしめるトイレも多かった。
 なおもその快適なドライブウエイーを走る。道は一旦平地を走るのだが、またなだらかな山道を走るようになる。ここからの風景がとても印象に残った。幾つものなだらかな丘陵地を縫って道は続いている。その丘陵には緑の草が茂り、遠くからは全て芝生のように見える。と、いうよりも、いくつものなだらかな小山の上を緑色の水が流れているように見えるほど、それらはなめらかな美しい形をしていた。その美景を過ぎると展望所があったので止まった。そこには天皇皇后両陛下御立見処と書かれてあって、そこから眼下に阿蘇の平野が広がっており、その先に峰々が連なっている。小学校か中学のとき、国語の教科書に阿蘇が取り上げられており、仏の寝姿に似ているという阿蘇連峰の写真が載っていたが、おそらくその写真はここから撮ったものだろう、と思った。平野の方へ下って、阿蘇の町並みを通り抜け、阿蘇山へと向かう。ここは今回の旅の大きな目的のひとつである。阿蘇登山道路を走る。すると「夏目漱石 二百十日記念碑」の看板。早速車を停めた。小説には二人の男性が阿蘇山への登山途中に道に迷うシーンがあるのだが、その迷った場所がこのあたりだというのだ。観光客もなく、その記念碑はうっそうとした草原に埋もれていた。          なおも進むと牧場があり多くの牛が飼われている。その中を進む道をひたすら右へ左へ昇り続けると、左手に駐車場が見えた。車を止めて景色を眺めてみると、あの名高い草千里が目前に広がっている。名所と言われるだけあって、その草原といい、その中にある湖といい、とても美しい風景だ。目を道路の反対側に向けると「米塚」と呼ばれる小山が眼下に見える。美しくなだらかな端正な山なのだが、頂上付近が少し窪んでいる。ある神様が米を盛り上げて山を作ったのだが、農民たちの貧しさを見かねて、その山の頂上部分の米をとって皆に分け与えたという伝説があると聞いた。草千里を後にして、今度は火口の方へと向かう。山の中腹に広い駐車場があって、ここからはロープウエーでも火口へ行けるようになっている。自分は車で火口へと向かった。しかし、この様な風景は今まで見たことがない。火山のイオウが草や木の成長を妨げ、その結果、その風景が地獄の情景だと評されることがしばしばある。青森の恐山などはその代表例だけど、ここはその情景の規模の大きさがその他とは違う。活火山の火口付近なのだからうなずけるが、そのあたり一面がまるでその地獄の風景なのだ。防空壕のような奇妙なコンクリート製の建物がその奇怪な風景を一層際だたせている。これは待避壕といって、火山爆発時に避難するところで、その上に多くの石が積もっているのを見ても、この火山の威力を思い知らされる。火口についた。多くの観光客が火口を覗いていた。早速自分ものぞきに行く。するとその辺りを飛び交う言葉が日本語ではないことに気が付いた。観光客の大半が日本語ではなく中国語をしゃべっている。台湾からの観光客ではないか、と思った。世界一の噴火口というように、その風景は全く圧巻だった。火口からもうもうと吹き上がる白煙。その下には青白い水が見える。あの中に落ちたらどうなるだろうといらぬ想像をして身震いする。辺りは遊歩道が完備していて幾つかの火口を安全に効率よく見て回れるように工夫されていた。車に乗って来た道を降りるとき、辺りが急に白霧に包まれた。神秘的な風景に一層深い演出がほどこされる。
 登山道路を来た道とは逆の南側に降りて国道325号線を東へ向かう。途中コンビニがあったので弁当を買って食べた。パラパラと小雨が降ってきた。
 そこから幾つかの峠を越えて走ると、高千穂の町に到着した。神話の町「高千穂」。ここはいわゆる天皇の先祖の神が天から降りてきたという「天孫降臨」伝説で有名な所。ここでいう神話とは、「記紀神話」といって、古事記、日本書紀に記載されている神話で、戦前、戦中に天皇を神と崇めた、国家神道の根拠ともなる説話なので、中には違和感を持つ人も少なくないと聞く。だが、ここで私が興味を持つのは日本に長く語り継がれてきた、フィクションであり、伝承説話としての神話である。天皇が神の子孫であると裏付けるこの神話も、その舞台となるこの地を訪ねてみると、なるほどと感じるほどのシチュエーションが整っている。当時の人々の知恵の深さ、感性の豊かさを感じさせられた。この高千穂という一地方の田舎町に、天皇の祖先といわれる「ニニギノミコト」が天から降りてきたという説。海から遠く離れた内陸のこの高地を誰が見つけたのかは知らないけれど、確かにこの地は神聖を感じる場所だった。この場所と神話を結びつけた古代人の感性に心揺るがされる。
 まずこの地で訪れたのは「高千穂峡」。突然目の前にあらわれる渓谷。渓谷というより地の裂け目といったほうがいいのかもしれない。その裂け目を見て初めて、自分たちがいる場所は高地だったのだと気付く。細く曲がった道を谷間に降りていく。左右に分岐する道路沿いに車を止めて地図を見て降りていった。左手の岸壁から幾つもの流れが岩を伝って降りている。玉垂の滝。水の弾ける音、木々の緑が目にまぶしい。そのすぐ側が公園になっていて、幾つかの小池が点在している。この雰囲気はどこかで味わったことがあるな、と思ったが、それは富士山のふもとにある「忍野八海」だと気付いた。この池の水の清らかさはそれが湧水であるがゆえの澄み切った清純さだと思った。しばらくその辺りを歩いていよいよ渓谷の方へと石段を下っていく。そこは柱状に浸食された岩の隙間にできた断崖だった。確かに太古の風情を感じさせてくれる。遊歩道の途中に展望スペースがあったのでそこへおりて後ろを振り向くと、その景色はあった。美しさというのは何をもってそうと感じるのであろうか。いつも見る快いと思う風景の数々。山や川や雲や空。しかし、ここはたしかにそれらとは根本的に違う風景のように思えた。岸壁が寄り添い、その上部は緑に隠されて、そこは洞窟のように見える。その下をゆっくりと流れる水の色は少し青みを帯びて、そのシンとした空間にさきほど見た池からの水が滝となって白い飛沫をあげている。確かにこの地に神が降りたとしても何の不思議があろうか。そんな神秘的な空間。人の少ない平日のこの日、先ほどからの小雨も上がり、涼しい風が一層深い情緒を醸し出してくれる。その渓谷を後にして、すぐ側にある高千穂神社に向かった。ここは、この地に降りられ、ここに住むことを決められたニニギノミコト、コノハナサクヤヒメ以下三代の神々をお祭りしているのだという。また、天岩戸(あまのいわと)伝説を題材にした「夜神楽」で有名なところだということだ。そのあと、そこから車で10分ほどのところにある、天岩戸神社に向かった。天の岩戸伝説というのは次のような話である。『太陽の神であり天上の国である「高天原」の主宰者「アマテラスオオミカミ」だが、弟の「スサノウノミコト」の乱暴に悩んでついに天の岩屋という洞窟に閉じこもり岩の戸を閉めてしまった。それにより世界は太陽の光を失い真っ暗闇になってしまう。この危機に直面して、八百万の神々が初めて協力して働き始め、アマテラスの復活のために祭りを営む。芸能の神として崇められる「アメノウズメ」の踊りを見て大笑いする神々。「なぜ私が隠れているのに皆は楽しいのか」という問いに「あなたより尊い神がここにいらっしゃるので笑っているのだ」と答えるとアマテラスはそれを見ようとして隙間から外を伺う。するとそこには鏡に映し出された自分の姿が映る。この鏡は後に天孫とともに地上に降臨し、伊勢神宮に祭られる、三種の神器のひとつ「八咫鏡(ヤタノカガミ)」である。それが自分と気付かないアマテラスはもっとよく見ようと少しづつ岩戸を開いた。そのときアメノタヂカラヲの神がアマテラスの手を引っ張って外へ出し、アメノフトダマの命が注連縄を引き渡して再び入れないようにした。これによって世界は再び明るく光り輝いたという。一方その原因になったスサノヲは髭や手足の爪を抜かれて高天原から追放されてしまった』。当然これは高天原という天上を舞台とする物語なので、それがこの地にあるのは矛盾するのだが、とにかくこの天岩戸神社のご神体は拝殿から川を隔てた断崖の中腹にある「天の岩戸」なのだ。ここは神域で立ち入りできないということなので、そこから500メートルほど離れた場所にある「仰慕窟(ぎょうぼくつ)」という洞穴に行くことにした。神殿の裏の道を下ると渓谷沿いに細い道が続いている。苔むした情緒ある遊歩道。青い緑を抜けて流れる清流。この道を歩くだけでもここに来る価値はあると思う。延々と歩いてようやく目的地に着くことができた。この間、誰一人とも会うことは無かった。天安河原というのはアマテラスが隠れた際に神々が会議を開いたとされるところ。その奥にある洞窟が仰慕窟。その風景をみてゾッとするほどの神秘性を感じた。奥には古いお社。あまり広いとは言えない河原だが、そこにはぎっしりと小石が重ねて積まれている。こんな場所もあるんだと感心して薄暗い洞窟の奥を目を凝らして見ると驚いた。誰もいないと思っていたその場所に白装束に身を包んだ三人が正座して頭を下げてお祈りをしているではないか。洞窟の中は天井から水がポタリポタリと落ちている。その人たちはびしょびしょに濡れていた。その場所には5分ほどいただろうか、その人たちはその間微動だにせず延々と祈り続けていた。
 高千穂を後にして太平洋側、延岡へ。そして延岡から国道10号線を南へと進んだ。途中、ある橋を越えて左を見ると、奇妙な塔が立っている。これはなんだ、と思ってそちらの方へ行くことにした。するとその塔には「日本海軍発祥の地」と書いてある。どういう意味だろうと説明板を見てみると「ここは美々津という場所で、昔、神武天皇がここから初めて水軍を編成し東へ向けて進軍した」という場所らしい。その塔のすぐ側には立磐神社という小さな神社があって、そこには神武天皇が腰をかけた、という岩が置かれてあった。
 宮崎に着いた頃、辺りは暗くなっていた。シーガイアとはどういうところなのか見てみようと思って、その前を通ってみた。だだっ広い場所にホテルやゴルフ場。そしてオーシャンドームが立ち並んでいる。宮崎市街の近く、海沿いによくこんな場所が手つかずで残っていたな、と思った。宮崎市を抜けて今晩泊まる場所を探していたところ、トイレのある駐車場があったのでそこに車を止めた。弁当を買って食べ、そろそろ寝ようとした頃、何台もの車が駐車場に入ってきた。ここはサーフィンで有名なところらしく、若者がたむろして騒ぎだした。これは参ったとばかりに国道220号線、いわゆるフェニックスロードを南へ走る。暗闇を走るのはもったいないと思うのだが、適当なところがないのでずいぶんと進んでしまった。最初から訪れる予定だった鵜戸神宮(うどじんぐう)の駐車場についてここに泊まることにした。

7月8日
 鵜戸神宮は日南海岸に突き出た鵜戸岬の先端にある。そこへ行くにはこの駐車場からひとつ山を越えなければいけない。早朝、辺りは夜中に降った雨で湿り、ひと一人の姿もない。石段をしばらく昇るとトンネルがあった。海風がその細い筒を勢い良く流れて、僕はその中を風に逆らって歩く。ゴーゴーという音が耳を射し、髪の毛が後ろへと流れる。トンネルを抜けると、戸の締まったみやげもの屋が並ぶ細い石の道。そこを降りていくと広い海が目の前に開けた。太平洋。朝日が水平線を昇っている。そこから左手に鵜戸神宮はある。建物は、山と海の断崖との間にある細長い土地に配置されている。朱塗りの美しい山門を通って進む。ここの祭神は「ウガヤフキアエズノミコト」といって神武天皇の父君にあたるらしい。しばらく行くと、階段が崖の下へと伸びている。そこを降りていくと広い洞窟があり、その中に朱塗りの美しい神殿が建てられていた。ここが本殿らしい。洞窟の中にある本殿の周りを巡る。いくつかのお社や色々ないわれのある石などが置かれている。水が上からしたたり落ちる。とても神秘的な雰囲気だ。
 鵜戸神宮を後にして国道220号線、フェニックスロードを南へと走る。南国情緒あふれる道。あまりの気持ちよさにラジオに合わせながら歌いながら走る。道は南郷から内陸を通り、また海岸を通って、町に入る。丁度通学時間なのか制服姿が目に付くようになった。道も少し渋滞してきた。ここで驚いたのは、原付バイクで通学する女子高生。フルウェイスのヘルメットをかぶってカッ飛ばす制服姿。都会では見慣れない光景だ。なおも220号線を進むと鹿児島湾に出た。海岸沿いを北へ走ると間もなく目前に雄大な桜島の姿が映った。青空に浮かび上がる雄姿。頂上付近は白く煙っている。車を止めて、真正面から眺めてみた、ほれぼれする姿。しばらく見とれてから、桜島へと向かった。以前桜島は陸続きではなかったという。それが噴火によって道がついたのは遠い昔ではなく大正時代のことだった。確かに、桜島へ渡る道は溶岩道路といわれる灰色の岩がむき出した殺伐とした風景だった。しかし、しばらく行くとよくある旅館街が続く。大火山の島に住む人々もまた、我々と同じ普通の生活を営んでいることに驚いた。火口に一番近づいて見られる場所は、と地図で探すと、湯之平展望所。そこへ向かって走る。この辺りで面白いと思ったのは「お墓」。なんとここのお墓はそれぞれに屋根がついているのだ。最初それを見たとき何だか分からなかったけれど、覗いてみると中には普通の墓石があった。火山灰や火山岩から守るためだろうか。左右にうねる山道を登ると展望所はあった。そこから山の頂上あたりを見るとモクモクと煙を吐いている。一方海の方へ目を移すと、鹿児島湾の青。その向こうに鹿児島の町並みが手に取るように見えた。鹿児島と桜島は海を隔てて、こんなにも近かったのかと思った。それから桜島を一周しようと北へと向う。狭いところもあるが、この道は快適だった。途中、溶岩で埋没した鳥居を見た。
 桜島を後にして国分市を通って北、霧島へ向かう。まず訪れたのは霧島神宮。黒い大鳥居をくぐって本殿へ。途中面白いものを見つけた。そこには「さざれ石」と書かれてあった。言わずと知れた国歌に歌われるアレである。確かにそれは細かい石が集まって岩になっている。もっともこの石は岐阜県で発見されたものらしい。朱塗りの端正な本殿を拝する。最もオーソドックスだけど美しい神殿だ。ここの祭神は、天孫降臨の主人公「ニニギノミコト」である。そこを後にして霧島高原を走る。雄大に広がる青い山々。その中に建つ「道の駅・霧島」で昼食をとることにした。ここは素晴らしい「道の駅」だった。その広さも、美しさも設備も言うことがない。広く見晴らしのよいレストランで、黒豚のカツカレーを頼んだ。ボリュームがありとてもおいしかった。霧島温泉郷を通る。あちこちから白い湯気が立ちのぼっている。丸尾の滝に立ち寄った。雄大で美しい滝だが、何よりここの特徴は流れる水が青白いこと。この水を見て、阿蘇山の火口を思い出した。イオウ分が多く含まれる証拠である。説明板を読むと、この水はこの付近から沸き出す温泉だということだった。左右に折れる山道をなおも進んだ。その頂上付近に来たころ、その辺りは深い白霧に包まれていた。えびの高原。まずは地図を見て行こうと思っていた市営の露天風呂へと向かった。坂道を随分と昇ったところにそれはあった。木々に囲まれた別荘地という雰囲気のロッジ。そこで200円を渡して山道を降りていくと脱衣場があって、その横に露天風呂がある。本当に野趣に富んだというか、洗い場も何もない。ただ、岩で囲まれた湯船がひとつあるだけの温泉。周りは目隠しもなく山の自然のただ中にいると実感できる。その横にある女風呂とは木の塀で隔てられているのだが、女風呂の脱衣場への入口と男湯の湯船とは目隠しがない。ということは、女性客からは男湯が丸見え状態だということだ。そのあまり広くはない湯船に先客が二名いた。どちらも60を過ぎた方。初対面の二人らしいのだが、このあたりの温泉談義に花を咲かせている。この温泉はこの前テレビに出ていた、とか、地元のものしか知らない秘湯があるとか。砂利に腰を落として身体を洗って湯船につかる。イオウのにおいがする。二日間の疲れが身体から抜けていく。目前に白霧が流れていく。温泉を後にしてえびの高原へと戻った。あいかわらずの霧。しかし、高度が高いためかこの霧のせいか下界とは違ってとても涼しい。車を駐車場にとめて座席をリクライニングするとそのままぐっすりと寝てしまった。このひとときはまるで天国のようだった。こんな気持ちの良い昼寝をしたのは生まれて初めてじゃないだろうか。目が覚めたとき、霧は晴れて目前に高原の風景がパノラマのように現れた。車の側に立っていた柱には「えびの高原 標高1240メートル 日本最初の国立公園」の文字が掘られている。道を隔てた山側にはえびの高原の地獄とよばれる場所が広がっていて、イオウの臭いとむき出しの岩が一種独特な雰囲気を醸し出している。さて、高原を後にして一気に坂道を下りえびの市へ向かう。この日のうちに熊本の大牟田へ行っておきたかったので、どの道から行こうか迷ったんだけど、海側の道は混みそうなので内陸を通るコースを選んだ。445号線を北へと向かう。深い谷間の絶壁に作られた道を進む。工事が進んでいるとはいえ、所々の細い道は恐々として走る。この道もまた国道なのだ。五木という村を通った。ここはあの「五木の子守歌」が生まれた所だという。なおも狭い山道を進む。道は右に左にうねっている。空が暗くなってきた。すると目前の道がゲートに閉ざされている。時間通行止めと書いてあったけれど、わずか10分の差で通行できなくなったことを知った。次にそのゲートが開くのは翌日だということだった。これはまずいと引き返す。またもや何十分もかけて五木の村へ戻り、そこから県道で西、八代市に向かう道を進んだ。あたりはもうまったくの暗闇。この道も山道で対向車もほとんどない寂しい道だった。八代市から国道3号線を北へ走り熊本の町を抜け、208号線を大牟田方面へ走る。大牟田の大きな遊園地沿いにある公営施設の駐車場に車を止めて休むことにした。

7月9日
 朝起きると、目前には広くてきれいなグリーンランドという遊園地。ここ大牟田は三池炭鉱で有名なところ、炭鉱節で知られる場所だが、その歌詞にある高い煙突は何処を探しても見つけることはできなかった。炭鉱が無くなってしばらくたつようだが、こうして見る限り、ここはすでに平凡な一地方都市である。大牟田を後にして北、柳川の町へ入る。ここは水郷で有名なところ。私の住む京都の隣、滋賀県の近江八幡というところも水郷めぐりが有名だが、その場所と決定的に違うのは、近江八幡が町から離れた芦の茂る川を巡るのに対して、ここは町中の川を巡るということだ。観光地特有の情緒ある町並み。白い土蔵の立ち並ぶ風景。その間を縦横に水郷が巡らされている。しかし、その水郷のすぐ側を幾台もの車がせわしなく走るのを見ると少し興ざめした。佐賀市を越えて西へ、207号線を長崎方面へ向かう。途中「道の駅」があったので休憩しようと入っていくと、その裏は広い干潟で、どこからでも降りることができるようになっている。建物に展示してある写真を見ると、ここでは毎年、泥だらけになって行う運動会が開催されているらしく、そのためのシャワーも備えられていた。なおも進む。ここで是非とも見ておきたい場所があった。それは諫早湾の干拓地である。新聞やテレビを賑わした場所。海の水をせき止める鉄板が次々と水面に落とされていく様子はとても衝撃的だった。広大な干潟の生物はどうなったのだろうか。昔の堤防から新しい干拓地を眺めてみた。一面の青原。雑草が茂りここがもと海だったとは分からないほどだ。しかし、真下を見ると白く小さな貝が無数に干上がっていた。たしかにここはつい最近まで海であって、多くの生物の命が水を絶たれてこの青原の下に眠っている。とても寂しい風景だった。その道を南へ、国道251号線を雲仙普賢岳の方へと向かう。数年前大爆発を起こした活火山。土石流が町を飲み込んだ記憶はまだ新しい。359号線を登っていく。途中、その普賢岳を間近に望むことができた。白煙が上がっている。崩れ落ちることなく残っている馬の首のような岩石には見覚えがあった。その丁度裏手にあたる場所に出た。噴火で記憶に深い雲仙だが、ここは温泉旅館が立ち並ぶ有名な観光地だと知った。登った道とは反対側に降りて橘湾沿いに走る島原街道を長崎へと向かう。途中渋滞に巻き込まれた。ノロノロと走って峠を越えるとそこは長崎。山の斜面にびっしりと家が立ち並ぶ。この風景はどこかで見覚えがあると思ったら、それは瀬戸内海の尾道だった。しかし、尾道は仏教的な情緒をその背景に感じるのに対して、ここ長崎はキリスト教的な空気を色濃く感じる。西欧と日本が入り交じった不思議な町。そういった意味では、横浜や神戸に似ているとも言える。路面電車が走っている。深い郷愁に捕らわれた。今はない京都市電を思い出した。ある地下駐車場に車を止めて、遅い昼食をとることにした。どこで食べるかはもう決めていた。長崎へ来たら四海楼の長崎チャンポンを食べようと。この店が長崎チャンポン発祥の地だという。しかし、その辺りをいくら歩いてもそれらしい店は無かった。ある一角で大きな工事をしているが、もしやと思ってその場所へ行くとなんとその店は工事中だった。この旅で一番ガッカリした出来事だった。気を取り直してその辺りを散策した。平日だったが観光客の多さに長崎の人気を感じる。オランダ坂を登る。異国情緒が満ちている。しかし、今日は9日、明日中に京都へ帰らなければならない。そうすると今日の内に本州へ入っていたい。先を急ぐことにした。車に乗って北へ、平和公園の地下駐車場に車を止めて、公園へ入っていった。テレビや本で見慣れたあの像が立っている。ここである人に呼び止められた。長崎市の観光課の人だという。色々と市内の看板についてのアンケートの質問に答えると、長崎の絵はがきをくれた。平和公園からほど近い浦上天主堂へ向かった。坂を上ると傍らに美しい天主堂とは似つかわしくないがれきが放置されていた。これはなにかと調べると、長崎の原爆で壊されたものだという。悲劇を忘れないためにあえてここに置かれているのだろう。ここは観光名所というより生きた信仰の場であった。会堂の中へ入ると学校帰りの多くの子供たちが集まってシスターからキリスト教の話を聞いている。手を合わせて出てきた。心が晴れやかになった気がした。長崎はもう一度じっくりと巡ってみたい場所である。国道206号線を北へと向かうと、左手に興味深いものを見つけた。巨大な塔が三本、空に向かってそびえ立っている。思わず近くの駐車場に車をとめてそれを見ていた。全国を走っていると、理解しがたいほどの規模のモニュメントを見つけることがよくあるが、それは宗教的建造物である場合が多い。これもそういったものか、と見ているとその近くに説明板があったので読んでみた。それは「針尾無線塔」と呼ばれるもので、大正12年に旧海軍の手によって5年の歳月と150万円(現在の価値にして数百億円)の巨費を投じて建てられたもので、高さ137メートもあるという。この無線塔から発信された「ニイタカヤマノボレ」の暗号電文によって太平洋戦争の口火が切られたということだ。しかし、見れば見るほど不気味な塔だ。なおも進む。そうすると「ハウステンボス」の文字。見るだけでも行ってみようとそちらへ車を走らせる。山と海に囲まれた広大な土地に巨大な人工都市が作られている。しかしその前の歩道を歩いたりジョギングしている人に外国人が多い。なぜかと思っているとその側に米軍用のマンションがあるのを見つけて納得した。もうあたりは薄暗くなってきた。後はひたすら福岡方面へと走る。福岡市内。言わずと知れた九州一の大都市。町中は乗用車やタクシーで大渋滞。ふと側を見ると屋台が立ち並び多くの人がそこで飲食している。これが良く聞く博多の屋台だ。福岡の町を抜けてしばらく行くと博多ラーメンの店があったので寄ってみた。ラーメン大盛り550円。値段は安い、スープもおいしかった。、しかし自分にはこの麺は合わないなと思った。とんこつラーメンといえば細麺なのだが何か太い糸を噛んでいるように思えてしまったのだ。国道3号線を東へ走る。明日中に帰るには少しでも距離を伸ばしておきたい。北九州の町を通る。夜だからか、町の光が美しく神秘的に感じた。関門トンネルを抜けて国道2号線を東へ進む。この道は来た道と同じ。しかし、来たときは夕方で渋滞していたが、今は深夜で車の通りも少ない。小郡を越えて山口市へその北側、維新公園という広々とした公園に車を止めて休むことにした。

7月10日
 この公園は心地よい。広々としてトイレもきれいで、朝、多くの散歩やジョギングの人が立ち寄って体操している。さて、今日一日使って京都へ帰ればいい。ルートはやはり混雑を避けて、日本海ルートにすることにした。国道9号線を日本海へと走る。途中、津和野へ寄った。古くて情緒のある町並み。津和野といえば、森鴎外の出身地で有名だが、その生家を訪ねた。町を抜けて日本海の方へ走ると、コンビニのとなりにウドンと書かれているのを見つけてそこに立ち寄った。都会では考えられないほどの広い駐車スペース。駐車場で野球の試合がいくつもできそうなほどである。ウドンと書かれた看板のプレハブの中にはウドンの自動販売機があった。朝食がまだなので、そこでウドンを食べて車の方へ向かうと、やけにハデな服を着た初老の男女が車から降りてくる。これはなんだと思っていると後ろから競技用自転車を載せた軽トラックが入ってきた。なるほどと感心して先を急ぐことにする。海沿いの道を走る。来た道と違い、車線が海側なので、一層気持ちよく運転することができた。浜田のあたりで、派手な花飾りが立ち並ぶ場所があったのでお祭りかな、と見ていると、ナントそれは葬式だった。地方によって葬式も様々だなと感心する。途中、ドライブインのような建物に「温泉」と書いてあったので車を止める。フロントで500円を渡して風呂へ入った。またもや二日ぶりの風呂。心が洗われるような気持ちよさ。その後はもう延々と京都を目指して海岸線を走っていった。
 

 九州への神話の旅。火の国九州は確かに不思議な魅力に満ちあふれた土地だった。火山は色々な地形の不思議を作り、その姿に太古の人たちは神秘を感じ神を見た。そしてそれが今もなお大きな影響力をもって残されていることに大きな不思議と感動を覚えた。はるか昔、神が降り立った場所九州。もう一度訪ねてみたい。

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