なんとなく四国

10月3日
 軽自動車に乗って日本中を旅した。しかし、まだ行っていない地方が2カ所ある。それは北海道と四国。北海道はともかく四国は関西から比較的近い所。でも海を渡って行かなければならないというのがネックになっていた。秋10月。四国へ行くことにした。
 四国へ渡るには3つのルートがある。兵庫県明石市から明石大橋を渡り淡路島を通って大鳴門橋を渡るコース。一つは岡山県から瀬戸大橋を渡るコース。そしてこの5月に開通したばかりの広島県尾道市から愛媛県今治市をつなぐ「しまなみ海道」を通るコースだ。この三つのうち明石からのルートは一度通ったことがあるので、行きは瀬戸大橋を渡っていくことにした。
 京都から西、亀岡へ、そして国道372号線を丹波篠山、滝野社を通っていく。ほとんどが田舎道なので思いの外早く姫路についた。
 姫路城をまわって、しばらく走ると右手に伸びる奇妙な建造物が目に付いた。モノレールの軌道のようだが、突然プツリと途絶えている。引き返してそこへ行ってみた。廃墟。打ち捨てられた建造物が持つもの悲しさが漂ってくる。その高架の軌道跡は小さな川のほとりを延々と姫路駅の方へ伸びていた。そこから反対方向を見ると、遠く丘陵地に遊園地が見えたので、もしかしたら昔はそこまで繋がっていたのではないだろうか。
 姫路からは国道250号線を海沿いに岡山方面へ向かった。途中、美しい漁村の風景を見ながら赤穂市へ。今ちょうどNHKの大河ドラマで「赤穂浪士」が流れているためか街のあちこちに観光宣伝の旗がひるがえっている。赤穂城の前を通った。けして大きくはないが情緒のある城だ。
 岡山市を通って国道30号線を南へ、そして430号線を走り、瀬戸大橋にほど近い鷲羽山展望台の駐車場に車を停めて、その日はそこで寝ることにした。

10月4日
 早朝、駐車場から階段を登って展望台へ歩いていった。朝焼けが眩しい。最も海が良く見える場所に立って橋を眺める。いくつもの島をまたいで延々と白い橋が連なっている。幾つも並んだ橋脚の上部が揃って点滅している。
 さて、出発。児島インターチェンジから瀬戸中央自動車道に乗る。ほとんど車の通らない早朝の瀬戸大橋を渡る。早く進むのがもったいなくて少しスピードを緩めた。青い空にうろこ雲がなびいている。東の空には顔を出したばかりの太陽が輝いている。途中「与島パーキングエリア」に降りていった。細い道がループになって下へと続いている。ここは、小さな島の大部分がパーキングエリアとして整備されている。広い駐車場には既に20台ほどの車が止まっていた。高台から周りの風景を眺める。数多くの島が点在する瀬戸内の風景に酔う。
 坂出北インターを降りて最初に向かったのは「琴平」。丸亀市を通って国道319号線を南へ行くと突然、温泉街特有の町並みが現れる。JR琴平駅近くの町営駐車場に車を停めて歩いていった。駅は北欧風のしゃれた建物。その前の道を山の方へと進む。右手には高さ日本一という情緒あふれる高灯籠が建つ。と思えば通りを隔てて左手は飲屋街が広がっている。この辺り新旧聖俗が入り交じり、独特の情緒を醸し出している。白々しく整理された温泉街が多い中、ここはそのままの街なのだ。昔から温泉街とは娯楽の街であり欲望を癒す街でもある。
 川を渡って突き当たりを左に曲がると旅館や土産物屋の建ち並ぶ見慣れた風情の通り。そこをぶらぶらと歩いて右へ曲がると金比羅山へ向かう石畳の参道となる。そこでひときわ目をひくのは「敷島館」という三層建ての大きな木造旅館。神社のような大層な屋根と美しい細工に、明治時代の情緒を感じる。しばらく歩くとテレビや映画でおなじみの石段が続いていた。左右は延々と土産物屋が並んでいる。しばらく歩くと汗が吹き出してきた。そうすると店のおばちゃんがうちわを貸してくれた。前には会社の慰安旅行だろうか20人くらいの団体が歩いている。その最後尾にひときわ若い茶髪の男が二人、ガイドの説明も聞かずにじゃれて遊んでいる。こういう寺社仏閣などには全く興味がないのだろう。しばらく歩いてその二人が目を付けたのは、あるアイドルのポスター。店のおばちゃんに少し負けてもらったのか二人で手を挙げて喜んでいる。「なにもここでなくても買えるのに」と苦笑いしてその光景を眺めていた。
 785段の石段を登って本宮に到着した。そこからの眺めは最高。琴平の街や遠くの山々が一望できた。雅楽の音が聞こえるので何かあるのかと神殿の中を見てみると、祭儀式の最中だった。その様子を間近から興味深く見た。
 帰りは同じ道を降りていく。あちこちに同じ土産物屋の名を書いたうちわを持った人やそれがベンチに放ってあるのを見た。多少煩わしいが借りた物は返さなければと持ち続けて歩いてきたが、いざその店でうちわを返すと、何かおみやげにひとつ買ってくれ、と執拗に求められた。うまい商売もあったものだ。自分はその気がないので丁重に断って降りてきた。
 琴平を後にして国道32号線を南へと走る。そうすると右手に「秘境・賢見温泉」の文字。これはラッキーと、そこから渓谷沿いに続く細い道を10分ほど走っていくと、その温泉はあった。思いの外新しい建物だ。入口が分からなかったので一階の食堂に入ると、ここから入ればいいのだという。そこで500円を渡してタオルを受け取り一旦外に出て、崖に作られた階段を降りていく。風呂の入口からはきちんといた建物で浴槽の大きな窓からは美しい渓谷の景色が見えた。
 温泉を後にして国道32号線を少し戻り、「祖谷渓口(いやけいぐち)」というところから「祖谷渓」の方へ向かった。ここからは思いの外険しい道 だった。対向車が来たら離合できないような狭い道が左右にうねりながら続いている。ガイドブックを見て納得した。ここはかつて「四国のチベット」と呼ばれ、人がほとんど足を踏み入れなかった場所だというのだ。所々に車を止めてのぞき込むように渓谷を見ると遥か下手に青く光る水の流れが見える。
 この場所を訪れたいと思った第一の理由は、ガイドブックに載っていた小便小僧の像を見てみたいと思ったからだ。断崖絶壁に少しせり出した岩場の上でその小僧は果敢にも谷底に向かって小便をしている。正確な場所が分からないまま走り、もしかしたらもう過ぎてしまったかと心配していた頃、小便小僧と書かれた看板が目に留まった。車を止めて歩いていくと。確かにその像はそこで小便をしていた。何とも愛らしい姿である。昔、旅人がそこで度胸試しに小便をしたという伝承から建てられたそうだけれど、想像するだけでも縮み上がる思いがする。
 祖谷渓を過ぎ国道439号線を剣山の方へ向かう。この道は国道とはいえ、細い山道が延々と続く。昼時になったがどこまで行っても食堂らしいところがない。東祖谷山村という所に一軒だけ店を見つけたので入った。そこは「そば道場」と書かれた「そばの専門店」だった。狭いけれど小ぎれいな店内。お客も何人か入っている。店内には芸能人のサインや新聞記事が張られているので結構有名な店らしい 。
 店員は2名いた。人の良さそうなおばさんともう一人は茶髪の女の子。彼女はこのような山村には似つかわしくない都会的な美人だった。その子に「かけそばの大盛り」を注文した。愛想のない返事。四国といえば「讃岐うどん」と思うけれど、「祖谷そば」は全国的にも有名なのだ。800円。普通のそばにしては値段は高いが、まず、納得できる味だった。一人の若い男が入ってきて、店先にあるジュースの自動販売機を修理しに来たと言った。少しほころんだ表情を見せた彼女はその作業員と一緒に出ていった。店の奥は広い厨房になっていて、そばの精製もそこでやっている様子だった。おばちゃんにお金を渡して外へ出る。愛想よく丁寧に送り出される。自動販売機の前で何やら作業していた若い店員はちらりとこちらを見ると、何も言わずに少しうなずくような格好をした。
 そこからも延々と山道が続く。剣山の登山口まで来た。登山口といってもその場所は山の中腹あたりに位置するのだろう。しばらく走ると山頂に建つ鉄塔や建物が小さく見えた。四方八方どこを見ても山々山だ。この先の道も山の中腹をどこまでも続いている。しばらく行くと車が停滞していた。山道を走って何カ所か道路工事の現場に差し掛かったが、ここまでは運良くほとんど待つことなく来られた。しかしここでは30分ほど待たされた。この辺りの道路工事現場では30分くらいは平気で待たされるのだ。
 国道438号線を東へと向かう。徳島へ着いた頃にはもう辺りは薄暗くなっていた。それから55号線を南へと行く。小松原市を過ぎ阿南市。その港の中にある公園に車を停めて今日はここで寝ることにした。

10月5日
 朝起きると、魚の腐ったような臭いが漂っていた。トイレを済ませその場を後にする。
 そこからすぐの所にそれはあった。「大菩薩峠(だいぼさつとうげ)」という喫茶店。ガイドブックを見て是非とも寄ってみたいと思っていた。赤いレンガで作られた大きな建物。話によると、28年前からオーナーがせっせとレンガを積み上げて作っている建物で、まだ完成していないという。しかし、奥の方は窓も割れて朽ちており、まるで炭鉱町の廃墟を思わすような様子である。まだ早朝だったため喫茶店は空いておらず残念だったがその場所を後にした。
 日和佐町の「薬王寺」という寺に参った。ここは四国八十八カ所の23番札所である。四国といえば八十八カ所の遍路がとても有名で、特に最近、テレビや映画でよく取り上げられ、ひとつのブームといえるほどだ。これは弘法大師、空海が亡くなった後、高弟たちがその修行の地を巡ったのが始めとされているが、ここを巡ることにより様々な煩悩が消え、願いが叶うのだという。その風習は古くから四国全土に定着しており、昔は、歩いて巡礼した遍路を無料で接待するのは当たり前とされたらしい。現在はその多くがバスで廻る観光的な遍路だが、この旅の途中、白い装束を泥だらけにしながらも歩くお遍路さんを数多く見て、今もその風習は息づいているのだと知った。
 日和佐町から南阿波サンラインという道を走った。この道の途中にある第3展望台から見る断崖の風景が秀逸だった。
 国道55号線をひたすら室戸岬へと向かう。東洋町からの道は快適だった。海沿いに緩くカーブの続く道を延々と走る。ほとんど信号もなく、車も少ない。小さな漁村をいくつも過ぎていく。左手に広がる太平洋を望みながらアクセルを踏み続ける。
 室戸岬に近づいてきた。右手に弘法大師が修行したという「御厨人窟(みくろど)」という洞穴があった。そそり立つ岸壁の岩肌に洞穴が2カ所空いており、なぜかそこは鳥居が建てられていて今は神社になっている。中に入ってみると上から水滴がポタポタと落ちてくる。暗闇の向こうからこうもりの鳴き声が聞こえる。中から外を見ると、遠くに青い海が明るく見えた。
 少し行くと右手に大きな銅像が立っていた。中岡慎太郎の像。その後に登山道があり少し登ると小さな展望台があった。そこから目下に岩場が見え、その先に青い海と水平線が広がっている。確かにここが室戸岬だ。 
 ここから高知へ向かう道は平凡な田舎道だった。阪神タイガースのキャンプ地として知られる安芸市を過ぎた頃から少しづつ渋滞しはじめる。どこにでもある地方都市をいくつか通って高知の市街地へ入った。路面電車が走るのを見て懐かしく感じる。高知市へは一度訪れたことがあるのでそのまま通り過ぎることにした。有名な「はりまや橋」近くの交差点を左折して国道32号線を南、桂浜の方へ向かった。


大きなホテル前の駐車場に車を停めて遊歩道を降りていった。「桂浜」と書かれた石碑から通してテレビなどで見慣れた景色が広がっている。そこから坂本龍馬の銅像の方へ歩いて行く。小高い丘に立つ銅像の前は美しく整備され何人かの観光客が写真を撮っている。すると5.6人の若い集団がビデオカメラやマイク、ノートパソコンを持って何やら撮影し始めた。見たところ、大学の放送研究会という感じだ。その一団はそこから細い階段を下って桂浜の方へと移動する。自分もその後を降りていった。砂浜が広がっている。しかし、そうだと言われなければ、多少広いかもしれないけれど、極めて平凡な砂浜だともいえる。
 そこから海沿いの「黒潮ライン」という道を西へ進む。南国情緒あふれる道。仁淀川という有料の橋を渡ってしばらく行くと左手に長い橋が見えた。それは横浪黒潮ラインという道に続く橋だった。横浪半島を通る左右に曲がりくねった道を走る。時々見える海岸線は深く切り立って美しい。辺りはまったく民家ひとつない山中なのだが、その一番深いところに高校があるのには驚いた。それも度々高校野球で耳にする学校だった。
 その道も終わりに近づこうとしたとき面白い風景を見た。「竜宮」という名前の、まさしく竜宮城のように海に浮かんだレストランだ。2階建ての家が海の上にポカンと浮いている。そこへは桟橋が掛けられていて歩いて渡れるようになっている。以前に広島の方で、海に浮かんだ家を建て物議を醸した人がいたが、ここはどのようになっているのだろう。家なのか、船なのか。ともかく昼時になったので何か食べようとその店へ渡って行った。定食はないか、と聞くと無いという。大体ここはその近くでとれる海の幸をあてに飲むところなのだ。このようなレストランがこの辺りに4.5カ所点在していた。
 しばらく行くと須崎市という街についた。そこに大きな道の駅があり二階がレストランになっている。メニューを見て「土佐丼・800円」を頼んだ、土佐の名物、鰹のたたきがどんぶり飯の上にのせられたものだったが、これがボリームがありネタも新鮮でとてもおいしかった。やはり、旅に出たらその地の特産品を食べるのに限る。
 国道56号線を進み佐賀町というところで、温泉の看板を見つけた。「佐賀温泉」と書かれており、こぎれいなレストラン兼みやげ物店といった感じの建物だ。早速500円を払って入浴。浴槽からはひなびた田舎の田園風景が見渡せた。
 十分休憩をとってなおも行く。中村市で国道321号線を進む。土佐清水市から足摺スカイラインを通って足摺岬に向かった。足摺岬は室戸岬と違い、多くのホテル、旅館が建ち並ぶ温泉街だった。その温泉街をぬけたところが岬である。もうすでに辺りは薄暗くなり始めている。駐車場に車を止めて展望台と書かれた方へ歩いていくと、ここにも銅像が立っていた。ジョン万治郎の像である。今日一日で四国の南に三体の銅像を見た。室戸岬の中岡慎太郎、桂浜の坂本龍馬、そして足摺岬のジョン万治郎。大きさもほぼ同じで三人とも太平洋をはるかに見渡して立っている。
 展望台から辺りを見ると、深く切り立った断崖の鋭さと、青々とした樹木で覆われた景色が印象的だった。その近くには四国38番札所金剛福寺の塔が見える。弘法大師はここでも修行したということだろう。岬の先端近くの断崖の上には白く美しい灯台が立っている。これもよくテレビや雑誌でみる風景だ。ここから灯台の方へと続く道は深い木々に覆われた、回廊のような印象的な小道だった。ときどき木々の隙間から断崖の風景が見える。夕方の薄暗さも手伝ってか、その道は一層神秘的に思えた。「不思議の国のアリス」が迷い込んだ森はこのようなところだったに違いない。
 そのトンネルの終点、急に開けた場所に灯台がそそり立っている。辺りは遊歩道が整備されている。あたりは一層暗くなる。灯台のライトが回っている。岸壁の際上に少しせり出したスペースがあり、そこに立って下を見たとき思わず声を上げてしまった。そこから下は垂直に崖が落ち込んでいる。多分ここから落ちるとひとたまりもないだろう。あたりは人っこ一人いない。ますます暗くなり心細くなってきた。車に戻ろうと帰途についたとき、前から不意に大勢の人影がやって来たので驚いた。ガイドに連れられた観光客である。予定が遅れたのか、こんなに暗いのに観光に来るとか、と不思議に思った。
 車に乗って元来た道を戻る。土佐清水市から321号線を北へ向かう。あたりはもう漆黒の闇。街灯もない道を延々と走る。まだ7時にもならないのに対向車も来ない。周りの景色は想像できない。宿毛市の街並みを見てホッとした。コンビニで夕食を買って国道56号線を北へ走り御荘町の道の駅に車をとめて、食事をとって寝ることにした。

10月6日
 早朝、御荘町を後にして北へ向かった。四国の西端をつたう道、幾つもの海岸線と山を越えて進む。宇和島市を過ぎ宇和町へ入った。以前テレビでこの地にある博物館が紹介されていた。そこには昭和初期の風景が映画のセットのように再現されており、それを見て一度訪れたいと思っていた。しかし、この愛媛県歴史文化博物館の開館時間は午前9時。まだ1時間近くあるので少し寄り道することにした。
 宇和島街道、法華津トンネルを越えて道を左にとる。まっすぐの道。急に朝霧が覆う。しばらく行くとまたトンネルがあり、それを越えると遥か下方に、のどかな漁村の風景と美しい海が広がっている。今いるところはまったく山の頂で、海までは細く湾曲した道がその傾斜を右へ左へと降りている。少し下ってみることにした。
 ここで面白いものを見つけた。この傾斜地にはあちこちに、小さなモノレールの軌道のようなものが通っている。小学校の頃読んだ、ある学習雑誌の記事を思い出した。愛媛県は有名なみかんの産地。この斜面も一面にみかんの木が植えられている。これはそのみかんを出荷するためのレールなのだ。幼い日、記事を見て、一度その小さなモノレールに乗ってみたいと思っていた。そのレールはまるで遊園地のもののように青い木々の間を縫って走っている。しばらく行くとその軌道に貨車が止まっているのを見た。懐かしい思いがした。
 時間を見計らってその場を後にし、市街地を通って高台に立つ博物館へついた。コンビナートのような建物が目を引く。平日の朝に訪れる客は少なく、広く美しい館内はシンとしていた。受付で入館料を渡し順路に添って歩いていく。テレビで見たときは明治風の建物のみが印象に残っていたが、ここは愛媛県の歴史を石器時代から解説したところだった。真新しい博物館らしく、その展示は模型や映像、効果音などを多用し、見る人を飽きさせないようにとても工夫されていた。広い会場を一人巡る。
 明治、大正、昭和のブースについた。原寸大の路面電車が展示されている。その横を通り抜けるとそこに古い街並みがあった。テレビで見たのはこの風景である。これは愛媛県松山市の「大街道」という商店街の昔を再現したものらしい。お菓子屋、食堂、薬屋、写真館が建てられている。薄暗い館内はまるで夕暮れの風景のように感じる。懐かしい形のポストが立ち、木の電柱につけられた裸電球が道を照らしている。お菓子屋の中を見ると、ガラスの器に入れられた色とりどりの飴が並んでいる。隣の食堂へ入ってみた。そこにはまるで今まで人が食べていたような状態でうどんの鉢や湯飲みが並べられている。
 最後は「四国八十八カ所遍路」のブースだった。様々な資料で遍路の解説がされている。その中心には小さなお堂が建てられており、その中で遍路の映像が流されている。室戸岬、足摺岬などこの二日で訪れた場所が映る。直接、間接は別にして、四国を旅するとき、この弘法大師の足跡は避けることはできないものなのだ。今でもなお、遍路する白装束姿は何の違和感もなく四国の風景に溶け込んでいる。
 博物館を後にして国道56号線を北、松山市へと向かう。車の量も増えてきた。よくある地方都市の風景が続く。すると正面に城が見えた。松山城である。
 松山市役所前の地下駐車場に車を停めて辺りを歩くことにした。大通りの横を堀が巡り山の頂上に城が見える。その前を路面電車が走っていく。NTTの角を右へ曲がる。そこには「漱石ゆかりの松山中学跡」と書かれていた。左手上に松山城を見ながら愛媛県庁前を歩く。このにあたりは愛媛県の中心地なのだろう。ここは全くの城下町だと思った。山の高さのせいなのか、この城は今もって他の何よりもこの街のシンボルとして凛とした威厳を誇っている。
 三井生命ビル横の細い道を山側に登っていく。そこからは、しっとりとした雰囲気の散策路が続いている。しばらく歩くと開けた場所に大層立派な洋館が建っていた。これは「萬翠荘」といって、旧松山藩主久松氏の別邸として建てられたものだそうだ。その向かい側には、文豪夏目漱石が明治28年に英語教師として旧制松山中学に赴任した際、下宿したという建物跡がある。それはもう少し登ったところに「愚陀仏庵(くだぶつあん)」という名で再建されているという。細い石段を登ったところ、青々とした木々に囲まれて、その趣深い和風家屋は建っていた。辺りはとても閑静な雰囲気で、椅子に腰掛けてしばらく休憩する。この漱石の屋敷に正岡子規がしばらく居候したのだが、その際に句会などを開き、漱石の文学的才能はここで開眼したとも言われている。
 山を下りて少し東へ歩くと右手にアーケード街が伸びている。「大街道」。松山一の繁華街だ。その幅の広さに驚いた。昔ここは車が行き交う大通りではなかったのか、と思った。そこを歩行者専用にしアーケードを渡して商店街に仕立てたのではないか。
 訪れたい店があった。鍋焼きうどんの店「ことり」。430円でうまいうどんを出すとガイドブックに書かれていたので昼食はここだと決めていた。地図を見ながらその辺りを探し回ったが結局見つけられなかった。よくガイドを読んでみると定休日が今日の曜日になっている。もともと駄目だったんだ。と、あきらめて伊予鉄道の松山駅の方へと向かった。
 「子規堂」はお寺の境内に建てられていた。これは正岡子規が17歳で上京するまでに住んだ旧宅をここに復元したもので、子規に関する資料が小さな家に所狭しと展示されている。そこで目を引くのは、その前に置かれている電車。夏目漱石の小説「坊ちゃん」に登場するマッチ箱のような客車だ。大抵の人はこの窓から顔を出して記念写真を撮る。もう20年近く前に亡くなった祖母が生前、この場所で撮った写真を見せてくれたことがあった。
 車に乗って東、道後温泉へ向かった。前を走るタクシーについて細い繁華な道を走っていく。そうすると突然という感じで、見覚えのある木造三階建ての重厚な建物が現れた。周りはあまりに近代的な繁華街。その建物だけが時代に取り残されたように建っている。車を停車するとおもむろにおばちゃんが寄ってきて、今日の宿は決まっているのか、と聞いてきた。もう決まっていると答えると、入浴ならこの上に無料駐車場があるよ、と教えてくれた。そこは廃業したホテルの前で多くの車が駐車している。そこから道後温泉本館が下手に見えた。歩いて坂を下る。その正面からしばらくその建物を眺め写真を撮っていると、老夫婦が寄ってきて、「ああこの場所から撮ればきれいに写りますね」と言ってカメラのシャッターを切ってくれと頼まれた。
 見れば見るほど風格のある建物だ。明治27年建造、国の重要文化財に指定されていると知った。この風呂は観光客だけでなく地元の人々の銭湯としても日常的に使われている。料金も300円から1240円まで様々だ。窓口で一番安い「神の湯」300円を払って入ることにした。
 情緒あふれる館内。広い脱衣場も薄茶けた木で造られており、なんとも雰囲気がいい。ここは「古事記」や「万葉集」にも登場し、あの聖徳太子も訪れたという日本最古の温泉だという。常に43℃のお湯が沸き、熱も水も加えずそのまま利用しているそうだ。
 さっぱりと汗を流して、国道317号線を今治市へ向かう。つきあたりを左に曲がりずいぶんと進むと、「しまなみ海道」がよく見える公園である。その中心に来島海峡展望館という建物があり、「しまなみ海道」についてビデオや展示物などで詳しく説明がされていた。
 そこでは5.6人の家族連れがビデオを見ていたのだが、言葉が中国語だった。この5月に開通したばかりのしまなみ海道は海外でも有名なのだろうか。
 少し離れたところにもっと高い位置から見られる展望台があることを知った。登り口の前に荷物を満載したオフロードバイクが置かれている。この人も旅をしているのだろう。遊歩道を10分くらい登ったろうか、山頂に展望台があった。確かにバイクの主はそこにいてデジタルカメラで橋を撮影していた。年は40近いだろうか少し太めでバイク用のつなぎを着ている。そこからの眺めは素晴らしかった。その橋には細いループ橋が手前から繋がっている。しまなみ海道は自動車の専用道路ではなくすべて徒歩や自転車で渡れるようになっている。それは、歩行者・自転車の専用道なのだ。
 来た道を戻って今治の町を過ぎ、途中で夕食を買って「道の駅・今治湯の浦温泉」で休むことにした。夜8時。ビールを飲んで気持ちよくなった頃、辺りがにわかにゴロゴロといいだした。稲光が走る。すると突然雨が降り出した。ガラスというガラスに激しく打ち付ける雨。車で良かった、とホッとする。すると急に周りが真っ暗になった。停電である。向かいのガソリンスタンドも闇に包まれた。しばらくすると復旧したが、停電なんて久しぶりだ。雨が止んでトイレへ行くと、中で髪を乾かしている人に会った。先ほど展望台で会ったバイクの人である。途中で大雨に遭ってここで雨宿りしていたのだろう。車に戻ってそのまま寝た。

10月7日
 朝、トイレで顔を洗い早速出発。今治市を抜け今治北インターチェンジから来島海峡大橋を渡って行く。昨日橋を眺めた展望台が左手に見える。雨は止んでいるが少し曇り空である。橋は本州まで開通したが、途中の道はまだ自動車道が未完成で所々下道を走る。幾つもの橋を渡る。辺りの風景に少し錯覚する。あまりに島影が多く、海らしくない。中には川のようなところすらある。このあたりは瀬戸内海でも最も島が密集しているところなのだ。そのおかげで辺りは独特な風景美を醸し出している。途中、瀬戸田パーキングエリアで休憩した。多々羅大橋が独特な姿を見せている。これは「斜張橋」という橋でこの種では世界一の長さなのだという。
 因島を越え向島に入る。左手に見慣れた景色が広がってきた。山の傾斜地に張り付くように密集して建つ家々。尾道の風景だ。
 尾道は好きだ。大林宣彦監督の一連の作品の影響なのだが、一度じっくりとこの街を巡ってみたいと思っていた。それと「尾道ラーメン」。これも、今回ここを訪れる大きな目的のひとつである。意外と小さなJR尾道駅。その前の駐車場に車を止めカメラを片手に歩き始めた。 駅から向かって右手に連なる小高い山の斜面には、お城のような建物や旅館、家屋敷が無数に建ち並んでいる。商店街への入口付近に尾道出身の作家、林芙美子の像が置かれていた。その像はしゃがんでおりその傍らにカバンと傘が置かれている。商店街を行くとまだ朝のためほとんどの店は閉まっている。そこで4.5人の人が集まっている所があった。それは屋台の上で魚をさばいて売る行商のおばあさんだった。心に染みる風景だ。
 線路沿いに走る国道に出た。そこには古く大きな陸橋が線路をまたいで建てられている。大林監督の映画で何度も登場した風景だ。そこを渡って山沿いの街へと入っていく。尾道は坂の街として有名で、細い道がまるで迷路のように縦横無尽に走っている。ここに長年住んでいる人でも知らない道が多い、というからその入り込み方は想像できるだろう。
 4.5人の小学生グループが何やら紙を見ながらウロウロしている。見るとウォークラリーをしているようだ。あっちだ、こっちだと楽しそうにしている。すれ違ったときみんなが「こんにちは」と挨拶してくれた。
 思いつきで、でたらめに歩いていると、所々で映画で見たような風景に出くわす。平日の朝ということもあって観光客はほとんどいない。街の一角が小さな公園になっていて「尾道市文学公園」と書かれていた。その上には古い木造の家が建ち、ここは志賀直哉の旧居だという。ここからの眺めは美しかった。その横にはひっそりと隠れるようにして建つ小さな洋風の喫茶店。「都わすれ」という名前もそうだが、何ともメルヘンチックな建物だ。
 最近では大林監督の映画で有名になった尾道だが、それよりも以前から、志賀直哉や林芙美子をはじめとする多くの文人墨客に親しまれ、愛されてきた街なのである。
 一人の男性が下から登ってきた。すると横からは女性が一人ガイドブックを見ながら歩いてくる。ここは一人旅の似合う街なのかもしれない。何処へ行くともなく坂道を歩いていく。すると一人のおばあさんが家人に見送られて外出しようとするところだった。家から大通りまでは歩くより方法はない。右手は広く尾道の街、遠くに尾道大橋。手すりに捕まりながらまっすぐ続く細い道を腰の曲がったおばあさんがゆっくり、ゆっくりと歩いていく。尾道はちょっとした風景も絵になる。
 城下町風のきれいな石段を降りていくと、そこは保育園だった。大声を上げながら遊ぶ子供たち。その前の長屋風の路地を歩く。すると「尾道観光協会」と書かれた建物の前に出た。ここから山頂までロープウェーで繋がっているのだ。迷わず乗ることにした。 狭い階段を登っていくと、ロープウェーの乗降場である。そこから山頂の方を見ると、山腹に青い木々に埋もれたように千光寺が建っている。15分に一回ロープウェーは動いている。時間が来て動き出した。山頂までは5分ほどの短い間だがガイドさんが尾道の説明をしてくれる。山頂についた。辺り一帯は広い公園になっている。その中心に展望台が建っており、中のらせん階段を登って屋上から尾道の街を見た。そこからの景色はどこよりも広く見渡せてとても美しかった。まるで川のように尾道水道が左右に流れている。渡し船が幾艘もその水道を横切っている。その両側に建物が密集して建っている。
 山の中腹にある千光寺へと向かった。そこへは「文学の小道」という道を降りていく。途中、先ほど会った子供たちとすれ違った。ひとりの女の子が「こんにちは」と声を掛けてくれた、こちらも微笑んで挨拶をする。他の子が「今の人は?」と聞くと「さっき、下で会ったじゃない」と説明していた。
 急な坂道だが、その所々の岩に尾道を詠んだ文人達の句や文章が掘られている。正岡子規、十返舎一九、山口誓子、中村謙吉、志賀直哉。その中で林芙美子の文学碑の前で三脚にカメラを構えている人を見た。しばらくすると下からロープウェーが昇ってきた。これは見覚えのある風景。ここからロープウェーと文学碑を入れて尾道の街を撮った構図は尾道の定番写真だ。その先の千光寺からの景色も素晴らしかった。
 再びロープウェーで降りて、大通りを渡って東へ行く。このあたりはそれまでと違って庶民的な家並みが続く。当てずっぽうに行くと「タイル小路」の文字。ここだと思った。何気ない石段の道を登っていくと左手にそれはあった。もう、まるで狭い長屋の軒先である。その下に無数にタイルが埋められていて、その周りには全国から寄り集まった人たちが置いていった色とりどりのタイルが置かれている。映画「時をかける少女」で幻想的な場面に使われてから、突然有名地になったのだ。歩いてみると確かに何か引きつけられる魅力がある。我々が忘れかけている、飾り気のない日本人の心の原風景がそこにあるように思った。その道を歩く。左右に並べられたタイルには思い思いの言葉がぎっしりと書かれている。ほんの数メートルでそのタイルの道は普通の路地になるのだが、なぜかそこを去りがたい気持ちになる。後ろから来た観光客は「ここがかの有名なタイル小路か」などと言っている。軒先をくぐり抜けるようにしてようやくという感じで広い道に出た。美しく整備された道。そこから右手にある神社にも見覚えがあった。映画「転校生」で主役の二人が転げ落ちるシーンの撮られたところだ。
 国道に出て東へ、浄土寺下というところから、海沿いの道に入る。その角にある民家は同じく「転校生」で主人公の家として描かれていた場所だ。その前の道を西へと戻る。漁船が停泊している。
 市役所前の商店街を入ったところに尾道ラーメンで有名な「朱華園」がある。しかし、不覚にもこの日は定休日だった。なおも海岸沿いの道を西へ歩くと「尾道ラーメン」の看板があったので入ってみた。「壱番館」という新しい店。ガイドブックにも載ってないのであまり期待していなかったが、思いの外おいしかった。醤油ラーメンなのだが、スープには魚介類の味が効いているように思った。麺は平らな縮れ麺だ。
 港の隅で3.4人のお年寄りが尾道の海を写生していた。尾道にはこんな風景もよく似合う。海岸の道は美しく整備されている。ちょうど昼休みになるのか、多くの人が腰を下ろして海を見ながら休憩していた。
 駐車場についた。尾道の街を3時間近く歩いて十分納得した。しかし再びこの街の魅力にとりつかれたようだ。是非とももう一度訪れてみたい。
 それから尾道を後にし、国道2号線をひたすら東へ向かい京都、宇治の自宅を目指した。四国と尾道の旅。なんとなく家を出た旅だったが、充実した旅だったといえる。しかし、これからしばらくはこのような気ままな旅はできないのではないか。残る場所は北海道のみなのだが・・・。

 


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