少し文学調に書いてみました・・・


(4000キロ軽自動車一人旅)

 何も突然思い立ったわけではなかった、かなり以前から、私はその場所を訪れたいと願っていた。4年前の初めての一人旅。京都から軽自動車に乗って出かけた先は能登半島だった。高速道路は使わない。泊まるのは車の中。食事もコンビニ弁当が主だという、ただ何かを見つけるという目的の貧乏旅行。その一泊旅行を終えたとき。日本地図を見て思ったことはいつかは青森へ行ってみたいということだった。心の中にある感情がうごめいている。 いつも求めようとしても求めきれない何か。私はある日何気なくテレビ番組を見ていた。シュールレアリズムの旗手「ダリ」はその作品の多くに夢をモチーフにしたそうだ。現実の絵の中に「夢」を具現する。「夢」と「現実」との橋渡しをする。それを見て私は思った。「私がいつも見ている夢の舞台は、もしかすると現実にあるのではないか」と。たわいのない話である。むろん私のいう「夢」とは、すべての「夢」をさすのではない。見る夢すべてのほんの一握りである。不思議な感覚、不思議な懐かしさに満ちたある夢の世界である。
 平成10年9月23日。台風一過の翌日の昼頃。天気はあいにくの曇り空。ダイハツミラという軽自動車に多くの荷物を積んで京都府宇治市の自宅を出た。目的地は「みちのく」と呼ばれる地域、主に青森と岩手である。宇治川ラインという川沿いの曲がりくねった道を30分も進めばそこは滋賀県琵琶湖。その東側を走る湖岸道路を北上する。
 青森への道は簡単である。地図で見る限り新潟までは国道8号線を走ればいい。そこから先は国道7号線。それで青森に到着できる。しかし距離にすればゆうに1000qを越える。
 琵琶湖湖北から少し山道を走ると福井県敦賀市。そうすると日本海の絶景が広がる敦賀湾である。しかしその風景も長くは続かず、国道8号線は山間部を通って武生の町へ入っていった。ここで一度目の給油。それから福井市、加賀市を通り、金沢を通る頃にはもうすっかりと夜。今日中に少しでも距離を稼いでおこうと、もう少し先へいくことにした。
 車での旅で泊まる場所の条件は、まず、トイレがあること、夜、駐車場が閉まらないこと、できればコンビニなどの店が近くにあることである。その条件に一番見合うのが最近多くなった「道の駅」。この場所の条件は最高。駐車場も広くて、トイレも新しい。という理由から僕はなるべく「道の駅」に泊まることにしている。そうすると左手に「道の駅」が見えてきた。富山県朝日町。今日はここに泊まることにする。左にウインカーを出して徐行しながら駐車場へ入っていく。トラックが多い。その他にもワゴンや乗用車が止まっており、中にはすでに座席を倒して寝ている人もいる。駐車スペースに車をおいてホッと一息。ジャージに着替えて助手席側に座る。ラジオと車内ライトをつけて、コンビニで買っておいた豚カツ弁当を食べることにした。狭い空間に一人。薄暗い車内で遅い夕飯を食べる。あまり寝心地の良いとはいえない車の中で熟睡するには酒の力が有効。と、いうわけで、500mlの缶ビールとワンカップを飲む。そうすると酔いが適当に廻って気持ちよくなってきた。外とは窓一枚しか隔たりのない世界だが、そのスペースは僕にとって特別なパーソナルスペースとなる。そうするとトイレに行きたくなってきた。ドアを開いて外に出ると風が冷たい。急に現実を知らされる。僕は今日こんなに小さな車の中で夜を過ごすのだ。前の座席をフルリクライニングさせてザブトンを敷きなるべくデコボコにならないように工夫する。そしてシュラフ(寝袋)にもぐってあとは寝るだけだ。
(23日1日目・食費1361円・給油1回604円・合計1965円・)

 朝6時頃目覚める。いつもの目覚めとは違う感覚。そうだ、車の中だ。寝ている間はどこでも同じだが起きたときにいつもと違う風景だと少し戸惑ってしまう。5分ほどぼんやりとして、タオルと歯ブラシを持ってトイレへ行った。トラックの運ちゃんが同じように歯を磨いてる。思いの外さわやかな朝。これからの旅の期待で胸が躍る。
 昨日、夕食と一緒に買っておいた「おにぎり」を朝食として食べ、出発することにした。アクセルを踏んで車の通りの少ない道を軽快に走る。そうすると日本海にせり出した断崖を走る道になった。すぐ左は日本海。遠く水平線が見える。その途中、駐車スペースがあったのでそこに止まって休憩することにした。そこは小さな展望台があって、その上から日本海と今通ってきた道を一望することができる。「青海八景天険断崖黎明」と書いた記念碑が立っている。そうここは「親不知(おやしらず)の海岸」として有名な名所である。その特異な名と共に印象に残っていた場所。その命名の経緯には幾種かの説があるそうだが、その一つは、昔から交通の難所として知られていたこの場所では、その切り立った断崖の下の海岸線を歩くしかなかった。ある日、親子がその海岸線を歩いていたとき、そのあまりに強い波風に親子を結んでいた手がほどけ子供が波に飲まれてしまったという伝説である。親子の縁も切り裂いてしまうほどの難所であったというのだ。その場に建っている親子像はその悲しみを物語っている。そして僕にとってこの名はもう一つの意味を持つ。十年以上前、知人がこの場所で命を失ったのだ。信州へとスキーに向かう道。仕事あけで疲れていた彼はカーブの続くこの道でつい居眠り運転をしてしまい、対抗車線を走ってきたトラックと正面衝突。即死だった。ただ助手席に座っていた友人がかすり傷で済んだことは不思議であり、ただ一つの幸いだった。僕にとってこの「親不知」という不思議な名前は「死」を関連させるキーワードとして心の中に刻まれている。
 国道8号線。左手に高い堤防が続くまっすぐな道を進む。T型交差点。ここを右折して国道148号線を進むと八方尾根、白馬などで知られるスキー場のメッカである。
 ひと口に国道といっても色々な道がある。片道2車線、3車線という自動車専用道路もあれば、軽自動車一台通るのがやっとという道もあるのだ。もう2年ほど前になるだろうか、今回と同じような旅で金沢から京都へ帰る道を決めあぐねていた。できればまだ通ったことのない道を通りたかった。そして選んだ道が国道157号線。福井県大野市までの道はすこぶる快調。そこから岐阜へも同じような道が続くと思いきやいきなりの土道。Uターンしようかと思ったけれど、これも面白いかと安易な気持ちでそのまま直進した。田舎道は次第に山道となり、登山道のような様相を呈する。あたりはもう真暗。斜面から流れる水は眼前の道を横切って崖下へ流れ、小さな崖崩れのあとがそこ、ここに残る。ていく。Uターンしようにもそんなスペースはない。そんな道が峠を幾つも越えて、なんと50q以上続いているのだ。もう4.5時間走ったろうか。民家の明かりが見えたとき、ホッと胸をなでおろした。その間対向車は一台も無かった。なんという「国道」だろうか、国道は大きな道という思いこみは禁物である。ただ、スリルを味わいたい人にはいいかもしれないけれど。
 国道8号線はそういう心配は無用だ。渋滞のない快適な道が続いている。柏崎市からは内陸部を通り長岡市から新潟市へと続いている。ここで少し浮気をして国道352号線に入り海岸線を走る。多くの漁村を通過する。懐かしい風景。日本人の原風景とも言える情景が続く。曇り空のせいか人通りは極端にすくない。しかし、日本海にはそんな空が似合う気がする。今は初秋だが、厳しい冬へと向かう決意が静かに満ちているような気がする。いつの間にか看板は国道402号線を表示している。そうすると右手に滝が見えてきた。ここは「野積」という場所、この滝は「弥彦様清めの滝」というらしい。その昔、弥彦という神様がこの滝で精神修行したというのだ。その前は海水浴場になっていて海の家が点在している。季節はずれの海の家。わびしい空気が流れている。
 なおも行くと左手に不思議なものが建っていた。こういう旅をすると度々目にするのが、大仏や観音様の巨大な像である。しかしここでみた巨大像は「お坊さん」の形をしていた。袈裟を着て数珠を持った僧侶の巨大像がそびえている。一瞬大きな違和感を感じたが、この辺りは蓮如聖人に関係する場所で、そういう理由からこの像が建てられているのだと知って納得した。
 左右を雑木林で囲まれたどこまでも続くまっすぐな道を走る。新潟市を抜けて国道7号線、途中から国道345号線へと入り海岸線を走った。午後2時頃、道の駅で遅い昼食を食べる。少し奮発してさしみ定食を頼んだ。850円。新鮮なさしみがうまかった。なおも行くと左手に「立岩海底温泉」という看板が目についた。この場所は見覚えがあった。「くいしんぼう万歳」というテレビ番組で紹介していた場所だ。早速温泉に入ることにした。「海底温泉」というくらいだから下の方に風呂があるのかと思いきや、階段を上がれという表示。番台のようなところで350円を払い少し歩いて「男湯」と書いたのれんをくぐって脱衣場へ。説明書きを読んでみると海底からお湯をとっているから「海底温泉」というらしい。中はそれほど広くない。7.8人入れる浴槽と洗い場だけ。ただ海岸側が大きなガラス窓になっていて見晴らしは良かった。平日の昼間だというのに2人の先客がいる。この建物のすぐ横が広い釣り堀になっていて、その釣り客が主に利用するらしい。しばし浴槽に身を沈めながら日本海を眺める。
 温泉に入ることはこの旅の楽しみでもある。温泉地に行けば必ずというほど安く入れる共同浴場があるし、それでなくても今は温泉を利用した公共施設が多く建っているので、こういった所は広くて多彩な温泉を安価で利用できる。こういう施設は太平洋岸より日本海側の方が多いようだ。
 二日分の垢を洗い流し、さっぱりとしたところで先へと急ぐ。次によった所は「十六羅漢岩」。展望台から海岸線を見るとなにげない岩場の風景。しかしよく見ると、その岩場に十六体の羅漢像が掘ってある。浸食されて削られて、中にははっきりとその状態を残してないものもあるが、その様々な表情に思わず手を合わせた。ここは夕日がとても美しいところのようで近くの売店にはここから撮影した夕日の写真が飾ってあった。あいにく今日はそれを見ることはできないがいつか見てみたいと思う。                           あたりはもう随分と暗くなり、秋田市に入った頃にはもう真っ暗だった。八郎潟の方角へ秋田市のバイパスを走ると、目前に不思議な塔が二本ライトアップされて建っていた。その異様な風貌に驚いた。それは巨大な白い十字架のようにも見えた。近づいて分かったがそれは風力発電所のプロペラだった。
 コンビニへ寄って夕食と明日の朝食を買い、道の駅を求めてしばらく走る。八郎潟のすぐそばの「道の駅・ことおか」に車を止めて今日はここに泊まることにした。雨がシトシト降っている。
(24日2日目・食費1998円・風呂350円・その他200円・ガソリン1940円・合計4488円)

                 3

 翌朝、目を覚ますと外は大雨だった。窓ガラスは湿気で白く曇り、車体を雨が強く打つ。この旅では目を覚ますとすぐに車を走らせて次の目的地へ移動するのが常だが、今回はしばらく雨が小降りになるまで待つことにした。私は子供の頃から雨は嫌いではない。梅雨の時期、シトシトと降る雨をいつまでも見ていた。それは川の流れのように、動と静の織りなす世界。降っているのに変わらない、流れているのに変わらない。不思議な空間であるのだ。フロントガラスにリズミカルに打ち付ける雨を時が止まったようにボ−ッと眺めている。それから小一時間もたったろうか、時計は8時をさしている。少し小降りになったので八郎潟へ向かうことにした。
 八郎潟は昔、日本で琵琶湖に次いで大きな湖だった。今は干拓されて、その中心部が広大な人工農場になっている。小学校の頃、この場所がある教育雑誌に載っていて、いつかは行ってみたいと思っていた。大きな橋を渡って干拓地の方へと入っていく。延々と続く直線道路。僕は今まで地平線というものを見たことはないが、ここでなら見られるような気がした。まるで日本ではないような広さである。居住区へ入る。広い道に似合った大きくきれいな洋風の家が建つ。赤い花々が道を飾っている。アメリカ的な大規模農場とはこういったところなんだろうと思う。
 八郎潟を抜けて男鹿半島へと向かった。男鹿半島といえば「なまはげ」で有名なところ。雪の降り積もる冬の夜、鬼の面をかぶって包丁をもって「悪い子はいないか」といって子供達を怖がらす、あの習慣である。男鹿半島の先端が北緯40度の地「入道崎」。雨の降る中、観光客でにぎわっていた。駐車場から芝の青い海岸線の方へ歩いていく。晴れていたならさぞ青々としてきれいだろうなと少し残念に思う。それから国道7号線を能代の方へと急ぐ。能代で昼食(焼肉定食600円)をとり、国道101号線を海岸沿いに五所川原市の方へと向かった。この道は良かった。美しさの中にもより美しいものがあるように。今まで見てきた景色がかすむくらい、僕の心を揺らした。確かに僕は「青森」に近づいているのだと感じた。国道に並んで走るJR五能線。今度来たときはこの鉄道に乗ってみたいと思った。それはまさに「夢の列車」ではないだろうか。
 語弊があるかもしれないが、青森は浄土に近い気がする。その主な理由は「恐山」に代表する霊場が多いのも挙げられるが、本州の北端という固定概念がそう思わすのかもしれない。私の夢の舞台が浄土と何か関係があるなら、そこに何らかのヒントが隠されているに違いないのだ。
 白神山地世界遺産地域と書いた看板が目に付いた。世界的にも貴重な原生林を抱く山地の横を通っている。しばらく行くと左手に「八森いさりび温泉はたはた館」という大きな建物があった。レストラン、宴会、売店などとともに温泉と書いてあったので。中の様子を見ることにした。大人一人400円。早速入浴する。この温泉はヒットだった。サウナやジャグジーなどの浴槽があり、露天風呂からは日本海が一望できる。二日続いての温泉に笑顔ホクホクである。
 朝あれほど降っていた雨だが、小降りになり、今は晴れ間が見えてきた。ある駐車場で車を止めて休んでいると海がキラキラと輝きだした。雲の切れ間から差し込む光が日本海の沖のある地点を照らして光っているのだ。あまりに唐突な美しい光景だった。
 しばらく行くと又車を止めた。初秋、ススキの穂は風になびき、ローカル線の線路を覆っている。雲が流れ、晴れた暖かい光がその光景を照らしている。心に染みる風景だ。この旅で初めて何かを感じた。「私はここにいたのではないか・・・」。そんな気さえした。       私の住む京都と青森は深いいんねんがある。平安京を作った桓武天皇の勅命を受け征夷大将軍坂上田村麻呂は大軍を率いてこの地に赴き、蝦夷(えみし)と呼ばれるこの地の人々と戦った。それだけではなく彼はこの地に北斗七星の形になぞらえて七つの神社を建立したのである。京都比叡山延暦寺が京の鬼門北東を守る意味で建てられたように、京の鬼門にあたるこの地にそれらを建てたというのだ。そんな話を聞いた。
 しばらく行くと千畳敷という名勝についた。車をとめて海岸へ降りてみると、ちょうど干潮で、広々とした平らな岩場が姿を現している。太宰治の小説「津軽」にはこの場所が紹介されているらしいが、確かに、この場所を宴会場に例えたならば千畳に近い広さになりそうである。しかし私はその足下よりもヌクッと建つ幾柱かの奇岩に目がいった。その岩には縦横に無数の裂け目があるのだが、その裂け型が何とも肉感的なのだ。ボンレスハムの縛り目というか、腕に幾本もの輪ゴムをまいた様子というか。そして、見る角度によって幾種類もの顔が出現する。私はその岩が小猿を片手で抱いているオラウータンの化け物のように見えた。その土地柄、岩の性質まで、青森を形作る役目を果たしているようだ。
 国道101号線から左に折れ、県道を十三湖の方へと向かう。この場所も以前テレビで見て行ってみたいと思っていた場所である。このあたりは沼が多い。亀が丘遺跡を通って十三湖についたときはもう真っ暗だった。コンビニで食事を買おうと思っていたのだがコンビニが無かった。道の駅も無いので十三湖の横の駐車場で泊まることにした。といっても、食事がなくては話にならないのでそのあたりを回ると、古い町並みの中に商店があったので入ってみた。突然の来客に少しけげんそうな表情を浮かべながら中年のおばさんは、私がたべものを物色する間レジの横で突っ立って待っている。あたりは静かで車の音も時折しか聞こえない。しゃれた弁当などあるはずもない。ビールと日本酒。それにおにぎりを買って先ほどの駐車場へもどった。すぐ横はロッジ風のトイレである。車もほとんど通らなくなった。こんなに静かな所に泊まるのは初めてである。その心細さを酒で紛らわせようと、一気に飲んで眠ることにした。飲むには飲んだが寝られない。トイレに行こうと車を出るとその静けさと寒さにゾッとした。太宰治の生家を訪れる予定にしていたので、持参した彼の紹介本を読んだ。その本の何ページかに、壮麗な生家のモノクロ写真が載っており、いつか訪れたいと思っていたのだ。読み疲れて少しウトウトとし始めた頃、エンジン音で目が覚めた。観光バスである。バスからトイレへ行く客がぞろぞろと降りてくる。彼らがこの車を見ながら通り過ぎているのを何となく感じる。バスが行き過ぎた後もやはり寝られない。そればかりかジワジワと肩の辺りが冷たくなってきて胸が気持ち悪く吐きそうになってきた。もう夜中12時を回っているが、違う場所に移動することにした。できれば明日一番の目的地である竜飛岬までも行ってやろうかと思った。そう思って車を走らせると途中、明かりのともる駐車場がある。50台は止まれそうなスペースにきれいなトイレ。売店はないけれども。ここで泊まることにした。そこに駐車しているのは自分だけだった。
(25日3日目・食費1930円・風呂400円・その他199円・給油一回1892円
合計4421円)
                    4 早朝、目が覚めた私は早速、竜飛岬へ向かうことにした。海岸線の新しい道を北へと向かう。朝の青い風が気持ちいい。対向車もなく、この道は貸し切り状態となる。そうすると右手に滝が見えてきた、小泊村「七つ滝」。解説板によると、日本海の激浪により形作られた滝で、山岳部から七段の断崖を落下し日本海へ流れ落ちているということだ。滝を見るといつもその上がどうなっているのかが知りたくなる。なだらかに広く落ちてくる滝。少しの間その滝を眺めていた。風が海から吹き上げてススキがそれになびいている。
 なおも進むと道は急に山を登り始めた。この道は「龍泊ライン」というらしい。幾重にも折り重なった道を登り切ったあたりに眺望台と書かれた駐車場があったので、そこに車を止めて竜飛岬の方を見てみた。岬はまだ遠い。いくつかの丘を越えた所に白い塔が林立している。この塔はどこかで見た物。そう、秋田市で見た白い十字架のような「風力発電所」である。岬に近づくにつれその塔の群れも近づいてくる。ラジオから女声オペラが聞こえてきた。何か象徴的だった。プロペラはすべて、それぞれが違う方を向いている。回っているもの止まっているもの。足下に近づいたとき、それらは白い巨人の群のようにも見えた。
 そこからなだらかに降りてきた所に「青函トンネル記念館」の表示があった。この下を本州と北海道を結ぶ青函トンネルが通っているのだ。早朝なのでまだ開いていない記念館の前を抜け広場に出ると、そこには、掘削や人員の移動に使った特殊車両が数多く展示してあった。その広場の片面は高い傾斜になっていてその中腹に「青函トンネル本州方基地竜飛」と書いてあり、坑道跡がセメントで口を塞いであった。そこから出て岬の方へ向かうと途中に「慰霊碑」があり、この工事て亡くなられた多くの方の名前が刻んであった。
 竜飛岬の展望エリアには石川さゆりの「津軽海峡冬景色」の碑が立っていた。スイッチを押すと歌が流れるようになっているので押してみると、辺り一面響きわたるような音量だったので驚いたが、ここがあの歌の舞台だと実感した。まだ朝早く、観光客はだれもいない。そのまま進むと道は小高い丘に続いていて、その上の駐車場から歩いて灯台へ行くようになっている。丁度、先ほどの風力発電所が林立するエリアとは反対側にあたる。なだらかに続く坂道を歩いてのぼっていくと白い灯台の横についた。その上に展望エリアがあり、何か古めかしい建造物がある。「旧海軍監視所」と書いた朽ちたプレートが張り付けてある。今にも崩れそうなコンクリート作りのモニュメントである。
 周りは断崖絶壁で、そこに花束が供えてあった。確かにこんなところから飛び降りたら確実に命はない。崎はおうおうにして投身自殺の名所となる。そこから海を見渡すと、遠くに北海道が見えた。
 「最果ての地、竜飛」と書いてあるけれども、辺り一帯は考えていた以上に整備されて美しい公園となっている。しかし、いくら美しく、無機質に、現代的に衣替えをしても、風力発電所が、白い十字架に見えてしまう哀しみの下地を、この岬は持っているような気がするのだ。
 来た道を折り返し戻る。十三湖を越え、国道339号線に入って進むと、太宰治の故郷、金木町である。あちこちに太宰の名は見かけるのだがお目当ての生家にはなかなか行き当たらなかった。町の中心街あたりを車に乗って右往左往していると、いきなりといっていいほど唐突にその館は姿を現した。確かに写真で見たあの館である。大地主だった太宰の生家は小作争議から家を守るためその周囲を高さ4メートルの壁でおおっていたという、いわば要塞のような豪邸である。「斜陽館」と名付けられたこの館。今は町が経営する太宰治記念館としてその役目を果たしている。
 津軽半島を出てその反対側の下北半島へと向かう。青森市内を通るのが距離的には近いのだが渋滞が予想されるのですこし遠回りをして青森市内を避けてバイパスを通り、国道4号線に入って下北半島の付け根にある野辺地町へと向かった。野辺地とかいて「のへじ」と読む。元来「野辺」とは野原を指す言葉だが、「野辺の送り」などと使うように「葬送」に関しても深いつながりのある言葉である。その野辺地の町を過ぎ国道279号線をむつ市へ向かって進む。「日本三大霊場、下北半島」と書いた看板を目にした。どんよりと曇った空、灰色の陸奥湾。風になびくススキの穂。
 「はまなすライン」と書かれた道をまっすぐ進むとドライブインがあったので昼食をとることにした。お目当ては「ほたて」である。このあたりは「ほたて」の名産地であちこちに「ほたて」の文字がならんでいる。この店のおすすめは「ほたて丼」だというので、少し値は張るが注文した。1000円。出てきた丼にびっくり。すしめしの上にほたてのさしみがのっているのだが、その量が半端じゃない。ごはんと同じ、いやそれ以上のほたての量。食べても食べても「ほたて」がなくならない、とまで書くとほめすぎかもしれないけれど、大満足してそのレストラン(常夜灯)を後にした。
 「むつ市」と言えば以前は原子力船「むつ」などで有名だった都市である。しかし、その都市に続く幹線のはずのこの道はなんとも殺伐として寂しい道だ。その多くは海岸線であったり、雑木林に囲まれていたり、時たま通過する漁師町を除いて人の姿を見ることがない。本当にこの先にむつ市はあるのかと心配になるほどである。失礼ながら、むつ市とは日本一へんぴなところにある都市なのではないか、とも思う。進んでも進んでもあまりに寂しい風景が続くので心配しているとようやく市街地が見えてきた。多くの人と車が密集する都会である。その変わり様に一種不思議な感覚を受けながらも「恐山」行きの看板を探す。恐山へ向かう矢印を見つけその道を進む。
 日本、本州の北端、青森県。その奥座敷ともいえるむつ市からさらに奥へとすすんでいく。まるでそれは、多くの関門を抜けて真実へ到達するための儀式のような気さえする。果たしてこの場所に浄土があったとしても何の不思議があろうか。
 むつ市から山の頂へと幾重にも重なった山道を昇っていく。峠を越えて下った所に広々とした空間が突然開かれる。
 霊場「恐山」は四方を山に囲まれた盆地にある。そこには宇曽利湖(うぞりこ)という湖があり、そのほとりに殺伐とした浄土の風景が広がっている。イオウの臭いが鼻をついた。湖のほとりの道をゆっくりと進む。イオウを含んだ水は木々を育てない。あちこちに黄色い土のむき出しになった場所があるのはそのせいである。山門前についた。ここに車を止めて入山券を買って中へ入る。その先に「本尊安置地蔵殿」という建物がありその周りに多くの建物が建つ。京都に住む自分にとってそれらは見慣れた風景であるはずなのだが、明らかに違う。イオウの臭いがそう思わすのか、「恐山」にいるんだという観念がそう思わすのか。しかし、確かにここは「この世」とは明らかに違う世界。異界であるのではないかと思った。
 今を遡ること1200年前、自覚大師の夢の中にある僧があらわれ「東へ30日間歩いた所に霊山がある。そこに地蔵尊を一体彫って安置しその場に仏教を広めよ」と預言したという。その夢に現れた僧の言葉を信じ苦労を重ねようやくたどり着いたのがこの恐山なのだ。それから「人は死ねばお山(恐山)へ行く」という庶民信仰に支えられ、その名は全国に知れ渡ったのである。
 地蔵殿の向かって左手に「あの世」を思わす空間が広がっている。イオウを含んだ水で洗われた一帯の地形は草木を拒み、黄色い地肌がむき出しになっている。あちこちに地蔵が立てられ、中には着物を着ているものもある。その岩間をゆらゆらと巡る。死んだ肉親の成仏を願ってあちこちに石が積まれている。その積み上げられた石の下から白い蒸気が立ちのぼる。今まで経験したことがない、見たことのない情景だ。
 しばらく下っていくと先ほどの湖のほとりに来た。そのあたりは広い砂浜で、「極楽浜」と書いてある。賽の河原である。ここにも多くの石が積み上げられていて、カラカラと赤い風車が回っていた。親にとって子供の死とは何にも代えがたい悲しみなのか、その重みがいっそうあたりを静かにしているようだ。しばしボーゼンと湖を眺める。湖の対岸の山々のその緑の、なんと鮮やかなことか。私が今いる場所があの世なら、この世はあのように見えるのではないかと思った。
 「恐山」を後にした私は338号線を北へと向かった。目指すは本州最北端「大間崎」。その途中には「仏ヶ浦」がある。明るい内に「仏ヶ浦」に着くため道を急いだ。車の通りも少なくなってきた。いくつもの山を越える。あたりが薄暗くなってきた頃、左手に「仏ヶ浦」の看板を見つけた。駐車場には車が一台止まっていた。海岸はその場所から遙か下、ということはそこまで歩いて降りなければならないということだ。「熊出没注意」と書いてある。少し不安になったけれども気合いを入れて薄暗い山道を下っていった。10分くらい歩いていくと、木の階段の入り口についた。そこから海岸までその木の階段を下っていくのだ。階段は下へ下へと続いている。刻一刻と日は陰ってくる。線香の香りがした。お経が聞こえたような気がした。看板には「仏ヶ浦には20余りの仏像、仏具にも似た巨岩、巨石が点在している」と書いてある。砂浜に出る。誰一人いない海岸。干潮の時間なので、沖の方まで歩いていける。巨岩のそびえる方へ歩いていった。昨日の今頃、千畳敷に寄ったが、その霊的なあやしげな雰囲気は比較にならないほど強い。満潮なら歩いていけないであろう砂の道を歩く。自然に浸食された地形に地蔵がまつられている。 仏教というけれども、はるか南方に生まれた教えに初めからこのような侘びしい感覚が内在していたとは思えない。この雰囲気は遙か昔からこの地にあって、そうした日本的な、地域的な風土が仏教と混ざり合ってこの地の宗教的情操を生み出したのではないだろうか。この地は日本人の心の根底に息づく郷愁を目覚めささずにおかない。それは心の、というよりも魂の故郷がここに存在するからなのだろうか。
 巨岩が立っている。しかし、安定感がない。ある岩は上よりも下の部分の方が細い。押せばころりと転がってしまいそうなもの、少し強い力で曲げたならば足下からポキリと折れてしまいそうな危うい形をした石たち。しかし、目前に寄って見るとその石はあまりの巨石であることに驚かされる。「ダリの絵の世界」である。まさしく不安定な巨石、見る角度によって現れるいくつもの顔は夢を描いたという彼の世界に共通するのではないか。泣き、笑い、怒り、ねたむ。そんな人間の百面相が巨石の肌に現れては消える。私は巨大な石ころの世界を蟻になって巡っている。今、太陽は水平線に隠れようとして夕日が美しい。ああ、確かに私は夢を見ているに違いない。
 「仏ヶ浦」を後にして大間崎へと向かう。山道を走り、漁村を通る。そして又山道。もうそこは霊的は場所ではなく、どことも変わらない漁村の風景だ。ある店で夕食を買うことにした。コンビニなどなくある商店に入った。そこで出てきたのは思いの外若く美しい少女だった。「いらっしゃいませ」と声をかける。ビールの所在と弁当の有無などを訪ねた。そうするとその後から少年が店に入って来た、彼は一瞬気まずい表情を浮かべながらタバコを一箱差し出した。多分知り合い同士なのだろう。北国の女性は美しいと聞く。確かに彼女は、この小さな漁師町には似つかないほどの美人だった。人と言葉を交わすことの少ないこの旅で、彼女と交わしたひと言はしばらくの間暖かく心に残った。
 大間崎に着いた。フェリーの発着場などがあり思いの他にぎやかな町並みである。その中で今日泊まる場所を探した。ログハウス調のトイレのある駐車場に泊まることにした。車を止めて、ホッと一息。まずはトイレと、その公衆便所に入って驚いた。壁の落書きがすごいのである。トイレの落書きというと下品な絵と文字というのが通例であるけれども、ここでは違っていた。私のように車で全国から来た人、自転車で日本一周をしている途中の人、次の日に北海道へフェリーに乗って渡るという人、「本州最北端」のこの地に多くの旅人が訪れ、その証として一筆を残しているのだ。まるでそのトイレ全体が一冊の雑記帳のようであった。そして私もその一人に加わった。まだそれが残っているならば、男子トイレの便器に座れば目前に日付と名前が書いてあるはずだ。
 駐車場には一台のワンボックス車が止まっていた。中年の女性が犬と一緒に乗っている。彼女も又、車での一人旅を楽しんでいるのだろうか。
 先ほどの店で買った弁当とビールを飲んで、長かった一日を終えることにした。
(9月26日・4日目・食費1890円・恐山入山料500円・その他1082円・ガソリン給油1回2166円・合計5638円)

 朝、目覚めると空はどんより曇っていた。外へ出ると冷たい風が吹いている。地元京都では汗をかくほどの暑い日もあるのだが、本州最果ての町ではもう冬の気配を感じるほどである。民家を少し抜けるとそこはもう岬だった。あたりは小さな公園になっておりいくつかのモニュメントが立っている。「本州最北端の地」。早朝だというのに4.5人の観光客が訪れていた。昨日おとずれた竜飛岬とはちがい、ここは海に近い。海風が強く吹いてくる。海猫であろうか、十数羽の鳥が目前を飛び、足下に降りてくる。人を怖がらず、手の届くほどの距離まで寄ってみたが逃げる様子はない。確かにこの場所は彼らの領域なのだろう、我が物顔に羽を休めている。少し沖に島というより岩礁ともいえるような所があり、そこに灯台が立っている。電波塔と付属建物もある大きな灯台。大波が来ると流されてしまわないのかと思えるほど危うい光景である。しばらく海を眺めていると公園前の土産物屋が戸を開け始めた。中からまだ寝間着姿のおやじが顔を出す。
 来た道とは反対側、太平洋岸の道を一気に下ることにした。国道279号線。昨日大間崎へ向かった道は細くて山道が多かったのだが、この道はすこぶる快適な道だ。むつ市への距離も格段に近い。フェリーに乗って北海道へ向かう人のほとんどがこの道を通って大間崎へ向かうのだろう。美しく舗装された広い道がいくつもの漁村を縫ってどこまでも続く。
 分岐点に来た。右へ行けばむつ市。左に行けば、この下北半島の太平洋側を通って六ヶ所村の方へ向かう国道338号線である。迷わず左を選んだ。とたんにまわりは森に包まれて、隔絶した風景に変わる。
 下北半島を地図で見れば人間の横顔に見えなくはない。人間というよりもスピルバーグの映画「ET」のようだが。その首の部分が今走る道。表と裏に血管が二本通っている。手で握って押し曲げたならポキリと折れてしまいそうな、そんな細い首の部分は、人里少ない原野の続く道である。 
 そんな原野の続く道に突然クレーン群が現れた。想像もつかないほどの広大な敷地に真新しい巨大な建物が林立し、その間に赤と白に塗り分けられた巨大な建設用クレーンが数十基立っている。今日は日曜日だからか、それらは全く稼動していないが、その風景は異様にさえ思えた。まず道が違う。つい先ほどまで通ってきた田舎道とは違い、その辺り一帯を交差して走る道はどれもこれも、町中の高速道路のようである。看板があった。「日本原燃、濃縮・埋設事業所」「原燃PRセンター」。聞いたことがある。ここ六ヶ所村には日本各地で出された「放射能を浴びた物質」を埋設処理する場所があると。PRセンターの辺りは真新しい広大な公園になっていた。のどかな田舎町には不釣り合いなほどの施設。私は以前にもこのような場所に来たことがある。京都府北部大飯町。原子力発電所のあることで有名なこの町も隣町から一歩入ったとたんに町並みが美しく、様々な公共施設が整っていた。ここもまた、国からの補助で整備が成されているのであろう。なおもまっすぐと進むとまたもや不釣り合いな風景に出くわした。巨大石油コンビナート群である。カラフルに彩色された石油コンビナートが数十基、広大な土地に林立している。牧場の広がるまわりののどかな雰囲気とのあまりのギャップにおどろきながらもしばらくそれらを眺めていた。「むつ小河原国家石油備蓄基地」と書いてある。日本国家のもしもの時の用意が、最果てのこの地にされいるのだ。この土地の人々に敬意を表する。                         そこからの道はまるで自動車専用道路であった。しばらく行くと美しい湖がありそのほとりにドライブインがあったので止まって休憩した。そうすると4.5人の外国人が車で入ってきた。観光地、京都では外国人は珍しくない。でもこの人たちはなぜ、と思ったとき、近くに「三沢基地」があることに気付いた。そして今日は日曜日である。明らかに京都などで見られる「観光目的の外国人」とは雰囲気を異にしていた。そのラフなかっこうといい、休日を楽しむ家族の姿である。                                           左右の木々が道路を覆い隠してまるでトンネルを通っているような美しい道を通る。そのまま国道338号線を進むとどこからか、飛行機のエンジン音が聞こえてきた。「三沢基地」に近いのだろうか。「三沢基地」といえば戦闘機ということで、何とかその飛ぶ姿を見ようと町中を右往左往したのだが、適当な場所が見つからなかった。割と広い道なのでまっすぐ行けるのかと思うとその先は基地へつながるゲート、守衛にジロリと睨まれたりした。英語と日本語が混在する町。もっとも今はどこの町でも英語は氾濫しいてるが、この町の英語は生活感がある。なぜか緊張する。日曜日だから飛行機が飛ばないのか、日頃からそう飛ぶ姿は見られないものなのか。そのまま次へと向かった。
 三沢市から県道10号線を西、十和田市へ。そこから4号線で北へと向かった。国道沿いに温泉を見つけたので早速入ることにした。「三本木ラドン温泉」。昨日は風呂に入れなかったので適当な場所を探していたのだ。入浴料はロッカー代込みで450円。大きな湯船が真ん中に一つある。足を延ばしてゆっくりとつかると疲れがとれて気持ちよかった。浴室には10人以上いたがみなもくもくと身体を洗っている。気のせいかみんながこちらを気にしてるように思った。
 それから七戸の町を394号線に折れると八甲田山の方へ行けるのだが、地図を見間違えて、だだっ広い場所に迷い込んでしまった。まっすぐと続く土道。地平線が見えるほどのどこまでも続く道。多分自分は今まで、これほどの直線を見たことがないのではないかと思った。少し迷ったが進むことにした。ここは牧場のようであった。左右に木が立ち並び草原が続く。その先の行方に困りかけた時、本来の道へ行く方向が書いてあった。地図で見るとここは奥羽種畜牧場というところだった。
 国道394号線を八甲田山の方へと向かう。八甲田山といえば幼い頃映画で見た「死の行軍」で自分の心に残っている場所。その記念碑の立つところへ行きたいと地図を見ると県道40号線をなおも北へと戻らなければならない。すでに青森市の近くである。それでもいいと思い、県道40号線を北へと向かった。この辺り一帯は湿原地帯になっていて、日曜日ということもあり、多くの人で賑わっている。バーベキューの匂いが漂う。しばらく緑の気持ちいい道を走ると右手に公園が見えてきた。八甲田山雪中行軍を記念する公園。その緩やかな斜面は芝生が敷き詰められていて多くの人がそこで昼食をとっている。その階段をしばらくのぼると山頂が広いスペースになっていて、そこには軍服を着た銅像が建てられていた。この像は明治35年1月、連隊の遭難の知らせを託された後藤伍長が連隊出発後5日目の27日、豪雪の中、胸まで埋まって仮死状態のまま立っているところを発見されたときの姿なのだそうだ。
 その公園の前から国道103号線につながる道を走り、国道を南に向かう。左手に八甲田山の雄姿を見ながら十和田湖方面へと向かう。季節が良かったからか。このあたりから奥入瀬渓流、十和田湖へと抜ける道は今まで経験したことのないような美しい道だった。京都や奈良の、人の手によって作られた美ではなく、神様が自然のままに織りなした雄大な美しさ。青森を巡り今まで見てきた浄土のイメージではなく、この彩色にみちた世界は天国のそれであろうか。
 途中、酢ヶ湯温泉を通った。古びた木造建築の何棟かで形作られるこの地は、温泉というより湯治場というにふさわしい。恐山でかいだイオウの臭いがした。やはり黄色い地肌をさらした場所があった。むろん、あの恐山で見た浄土の風景にはお呼びもつかないほど狭い範囲であったのだが。
 なおも進む。左手に八甲田山を望みながら紅葉しはじめた登り道をゆっくりと行く。子供の頃、京都市北部の高雄パークウェイへドライブに行ったことを思い出した。
 初めて通る道なのになぜか懐かしい。いらぬ考えが頭をよぎる。デジャブーと人はいうけれど、これはもしかすると人間の根元的な思考なのではないか。確かにどんなに高性能なコンピュータにもバグ(ミス)がおこる可能性があるように、私たちの思考回路にもバグが存在する。それはあるパターンに強烈に反応するのだ。もしも十字架がキリスト教の紋章でなくとも私たちは十字に意味を感じたであろうし、白い布を巻き付けた人間には恐怖を感じるに違いない。意味もなく心引かれる風景。それは寂れた漁村風景であり、バラックのならぶスラム街であり、ガード下の商店街だったりする。そして、この風景。みちのくの風景。私たちの思考と思考の間には予期せぬ深い溝があり、そこには共通のバクが存在する。神すらも知らない、神の姿をプリントしたフィルムの欠け端・・・。                      車を止めて頭を冷やす。静かに風景を見ながら。
 しばらく行くと奥入瀬渓谷の入口あたりについた、ここにはドライブインがあり車を止めて昼食をとることにした。日曜日ということもあってとてもにぎやかである。曜日を間違えたかなとも思ったが仕方がない。券売機で食券を買い店員に渡す。ラーメン530円。どこにでもあるラーメンである。レストランというより食堂。まあ安いのでがまんした。
 木々が覆う緑の道を進む。観光バスがあちこちに路上駐車してその度に渋滞になるには閉口したが、たしかに景色は美しい。もしかすると日本にはもっと美しい渓流があるのかもしれないが、この奥入瀬渓流の特長はその渓流のすぐ側を沿うようにして道路が通っているということだろう。走りながら眺めることもできるし、車を止めて数歩で川に着く。心和ます美しい風景。そうするとにわかにおなかの具合が悪くなってきた。もともとおなかは緩い方で、こういう時は非常に苦労する。こうなると景色どころではなくなった。必死でこらえてトイレを探す。観光バスのひきおこす渋滞に腹を立てながらも目を充血させ(当然、充血はしていなかったと思うが例えるならまさしくこんな感じ)神に祈りながら走る。とうとう奥入瀬渓流は終点を迎え十和田湖に出てしまった。突き当たりを左へ湖周を走る道路を進むとようやく左手にトイレを発見。車もそのままにトイレに駆け込んだ。今回の旅一番の不覚である。車での睡眠が続くので冷えたのだろうか、食べ物が悪かったのか。仕事を終えて車にもどり何とも言えない空しさに包まれた。楽しみにしていた奥入瀬渓流をこのままで終わらすのか。それではあまりに納得いかない。Uターンして渓流へ戻った。人間の生理現象の前では上品な感傷など吹っ飛んでしまうもんだ。あまり先へはもどれないので十和田湖側の2.3カ所風景のいい所に車をとめて今度は何の心配もなく存分にその美しさに酔いしれた。
 もうすでに日が落ちかけてきた。関西に住む人間にとって東北の地理感覚は皆無に等しい。京都から東京と、東京から青森までが同じぐらいのように感じていたのだが地図を見て驚いた。その二倍もあるのだ。まだ自分はこんなところにいるのかと、京都までの道のりを考えると気が遠くなる。
 少しでも距離を稼ごうとひたすら南下することにした。国道103号線、341号線を通って鹿角市へそして田沢湖方面へ向かって走る。夜、この道は心細かった。行けども行けども同じ風景、どうどう巡りの迷路に迷い込んだような錯覚におちいる。何時間走ったろうか田沢湖の看板が見えた。右折してしばらく走り田沢湖畔の駐車場についた。まわりをホテルと旅館に囲まれた駐車場。トイレの前に車をとめて、今日はここに泊まることにした。ここは高度があるためか寒かった。凍えながら夜を過ごした。                        車での旅は必然的に春と秋に限られる。方法は色々あるのだろうけれども、自分はこの季節に限定している。その大きな理由は夜寝るときである。夏は窓を開け放して寝ることはできないし、冬はその寒さで凍えてしまうからだ。エアコンをかけながら寝ればいいんだろうけれども、貧乏旅行を自認するこの旅の趣旨には合わない。夕食は抜いた。まだおなかの状態が完全じゃないからだ。しばし夢の世界へ。
(9月27日5日目・食費890円・風呂450円・ガソリン給油1回1691円・合計3031円)6 起きると朝の空気が白々としていた。このあたりはもう初冬のようである。田沢湖を少し巡ることにした。湖畔の道を右に進む。山々に囲まれた朝靄に煙る湖。静かな湖面。駐車場があったので車を止めてブラブラと歩いた。そうすると姫観音と書かれた小さな像が立っていた。この湖には伝説がある。昔、辰子という村の乙女が永遠に変わらぬ美しさと若さを保ちたいと大蔵山の観音に祈った。満願の日、にわかに山が砕け、水をたたえた美しい湖ができて、その乙女は蛇の姿に変わりその湖の主になった。それから村の人々はその蛇をあがめ、湖水の美しさを守り仕えてきたというのだ。しかし昭和14年、東北地方の振興のため、湖水を仙北平野の開拓と水力発電に利用することになり、湖は大きな変化を受けることとなった。ゆえに、ほろびゆく魚たちと湖神辰子姫の霊を慰めるために観音をここに祭ったという。伝説にふさわしい湖である。
 国道46号線を盛岡へと向かう。快適な道。盛岡の手前、左に小岩井農場と書いてある。早速訪れると青くなだらかな草原が続いている。牧場にはまばらに乳牛が歩いている。
 盛岡市内は朝のラッシュだった。現実感に打ちのめされる。この旅ももう6日目、着る物もなくなり、コインランドリーを探した。いざ探そうと思うとなかなか見つからないもので、そうすると交差点の角にコインランドリーらしきものがあったのを感じながら、そのまま直進してしまった。Uターンはできない道なので大体の目測で右折を繰り返す。このあたりだろうと思うと全く別の場所。一方通行が多くてうんざりとしていたころ、不意に先ほどのコインランドリーが見つかった。その前は車の通りの激しい細い道なので路上駐車できない。向かいのコンビニに車を止めてパンとジュースを買い、洗濯物を満載した黒いポリ袋を担いで道路を渡った。ガラスの引き戸を開けて中に入る。洗濯機のいくつかは回っている。空いているところに衣類を放り込みコイン投入。水の出る音がする。奥に長椅子があったのでそこに座るとガラス戸越しに外を眺めるかっこうになる。ぼんやりと外をながめた。交差点の前なので車が止まっては動く。スーツを着たサラリーマンや制服の高校生が歩いている。中には不思議そうにこちらをのぞく人もいる。マンガ雑誌があったので退屈紛れに読んでいると、カガーッと戸を開ける音。30才くらいの女性。同じく洗濯物を放り込んで出ていった。またしばらくすると今度はジャージ姿の若い男性。このあたりには大学の下宿があるのだろうか、ジャージに薄いはんてんを はおって、頭はボサボサ。いかにも今起きました、という感じ。こうして待っていると洗濯とは時間のかかるものだ。乾燥までするのだからなおさらである。通りの人の表情が変わる。会社へ急ぐ人から仕事中の人になり、学生は、余裕を持って友達と話しながら通っていた人が、急ぎ足の個人となり、今は余裕をかました兄ちゃんがブラブラと歩く。
 ポツンと取り残された隔絶感。これもまた良しである。
 ようやく乾燥も終わり車に戻って出発。そうすると3分ほど行ったところに広い駐車場を完備した綺麗なコインランドリーが見えた。世の中うまくいかないもんである。
 盛岡から国道4号線を南下花巻へと向かう。広い大きな幹線。そうするとにわかにおなかが差し込んできた。どうも具合が悪い。公衆便所などすぐにはみつからない。こういうときは役所やスポーツ施設などの公共施設を探すことにしている。岩山公園という表示があったのでそこに向かった。しかし、すぐそばだと思っていたもののどんどんと山の上に昇っていく。その山頂に展望台があり、トイレもあった。用をすまして外へでると、素晴らしい風景が展開していた。「ひようたんから駒」というか「災い転じて」というか、そこからは盛岡市街が一望できたのだ。
 国道4号線を進む。今回の旅の目的のひとつ、宮沢賢治の故郷を訪ねることができるのだ。賢治は好きである。その小説も詩も、その生き方も。確か昨年賢治生誕100年とかで、テレビでも各局が特集番組を組んでいた。賢治はこの岩手県を「イーハトーヴ」と呼んだ。そんな賢治の精神世界の一端でもこの地で感じられたら幸いである。
 まっすぐ道を行くと。看板が立っていた。「羅須地人協会」。その方角へ左折する。駐車場に車を止めて向かった先は「岩手県立花巻農業高校」である。高校といわれる場所へ足を踏み入れるのは何年ぶりであろうか、普通の学生が歩いている。先生のような人とすれ違う。軽い違和感を感じながらしばらく行くと「賢治先生の家」と書いた案内板があったのでそこを見るとたしかにその建物はあった。
 美しく芝を刈られた庭園の中に、木造の小さな二階建が建っている。この建物は宮沢賢治がこの農学校の教師を辞めて、農業生活に入ったときに住んでいたところで、そのひと部屋を改造して村の人や子供たちに農業のこと、童話や音楽などを教えた。この建物は本来ここには無く、賢治の死後この場所へ移されていたのだが、花巻農業高校がこの地に移転するときに、たまたま敷地内にあった建物がこの建物だと分かったという。
 花巻空港を越えて進む。「賢治詩碑」という場所へ行った。小高い丘の上が平らにならしてあってそこに石碑が建てられている。そこには、あの有名な「雨ニモマケズ」の文が彫ってある。「詩碑」と書いてあっただけなので、ここがどういう場所か知らなかったのだが、先ほど訪ねた「羅須地人協会」の建物が実際にあったのはこの場所で、賢治はここで生活していたということだ。建物の裏に書いてあった「下ノ畑ニ居リマス 賢治」という言葉通り、そこから下は水田が広がっていて賢治の田も実際にこの下にあったということを知った。
 このあたりには賢治作品のモチーフになった場所が点在している。その中で私が一番訪れたかったのは「イギリス海岸」だった。地図には小さく載っているのだがその場所がなかなか分からなかった。川沿いの細い道を迷いながら走っているうちについにその場所に到着した。何気ない川岸の風景である。私が幼い頃よく遊んだ、京都の桂川にも似ている気がした。賢治はこの場所をとても好んだという。満水の今は分からないけれどもかん水になれば下から白亜紀の泥岩が露呈し、それがイギリスのドーバー海峡に似ていることから賢治がこのように名付けたそうだ。なによりここは名作「銀河鉄道の夜」の舞台となった場所なのである。夏の夜空に南北に流れる天の川、地上を流れる北上川、その間を小さくてたよりない軽便鉄道が橋を渡っていく。
 主人公ジョバンニと死んだはずの友人カンパネルラが空を走る汽車に乗って天の川を旅する不思議な物語。その旅の終わりに、どこまでもついていくという主人公の言葉とはうらはらに友人は一人暗くて深い死の世界へ旅立ってしまう。西欧を舞台としながらもこの作品の根底には東北的な死生観が内在しているように思う。
 賢治は妹トシの死にショックを受けてしばらくの間創作活動を止めた。しかしある日吹雪の夜、花巻の街角でトシに似た横顔に出くわす。賢治は思う、まだトシは成仏していないと。彼はトシに会いに行く。向かった先は当時日本領だった樺太。文字通りの北の果てである。汽車に乗り青森へ。フェリーで北海道。北海道を北上し稚内から樺太。その当時汽車で行ける北限の地にある白鳥湖と呼ばれる湖の畔にたって彼は妹には会えないのだと実感する。
 死者を求める旅は結局は成就しない。しかし、死者を求める旅は途切れることはない。幾万の賢治がそれぞれの方法で死者に会いに行く。その方角は北である。体内磁石がその方向に向いているとでもいうのだろうか。私もまた北へと向かった。
 その場で腰をおろして昼食にサンドイッチを食べた。それまでが嘘のようにこの時間はポカポカとした陽気だった。釣り人が一人糸を垂らしている。遠く鉄橋が見える。しばらくの間、その何気ない風景に見とれていた。
 宮沢賢治記念館に行くことにした。市街地からしばらく走ると左に曲がれの文字。そこへ入っていくとこのあたり一帯が「宮沢賢治童話の森」と名付けられたテーマパークになっている。色々な施設があったが、記念館に入ることにした。宮沢賢治のことならなんでも分かるというほどの資料が、映像を交えて楽しく展示してある。修学旅行であろうか、女子高生が群れなして写真を撮り合っている。平日というのに混んでいる。賢治の人気を証明するようだ。子供からおじさんおばさんお年寄りまで熱心に展示物を見ていた。
 花巻を後にして国道283号線を遠野の方へと向かう。柳田国夫の「遠野物語」に代表されるようにこのあたりは民話の故郷と呼ばれる。このあたりでどうしても寄ってみたい場所があった。カッパ渕である。以前「探偵ナイトスクープ」という番組でこの場所が紹介されており、その渕を守るおじいさんがとても印象的だったので、一度会ってみたいと思ったのだ。しかし、地図を探してもそれらしき記述はなく。手がかりは岩手県遠野市あたりだという記憶のみであった。トイレ休憩のためある場所に駐車すると観光案内板があったのでそれを見てみると、確かに「カッパ渕」と書いてある。胸が踊った。
 遠野市についた。左折して340号線に入る。このあたりだと目測をつけて車を止めてあたりを見回すと、カッパ渕の案内板を見つけた。指示通り細い田舎道を歩いて進む。カッパ渕と書いて矢印がしてあるのでその先を見るとそこは古いお寺だった。本堂の横を通ってお墓を抜けて裏側へ。「順路」と書いてある通り進むとその横に小川が流れている。少し川を下り橋を渡って戻ってくるとそこに祠が建っていた。テレビで見たことのある風景。あいにくあのおじいさんはいなかったけれども祠の中に写真が飾ってあり、雑記帳には多くの人が記入していた。それによるとその日の午前中にはおじいさんがいたそうだ。残念だった。小さな川だがカッパの出るにはかっこうの場所のようである。
 太平洋側、宮古市に「浄土が浜」という名勝を見つけた。遠野市からだと北へ戻ることになるが行くことにした。国道340号線から106号線へ入り宮古市ついたころには辺りはもう薄暗かった。渋滞する道を進み大きな橋を渡って浄土が浜へ。駐車場があり、「近道徒歩13分」と書いてあったので長い道のりを歩いて下った。すると白い石が海岸を覆い、少し沖にそれらしい岩が横たわっている。これを浄土だとたとえるには少し無理があるなと思いながらも、この旅で行った「千畳敷」や「仏ヶ浦」とは明らかにその表情に違いがあることを感じた。それまでの二カ所は見る者の心に迫る鬼気とした雰囲気があった。しかしここは恐怖感や緊張感とはほど遠かった。怖くないのである。たおやかにこころ安く、どこまでも優しい雰囲気。たしかに浄土というにはこちらの方が当てはまっているかもしれない。
 その場所を出た頃にはもう日は暗くなっていた。少しでも南の方へ行っておこうと国道45号線をひたすら南下する。
 途中、温泉の看板が出ていたので入ることにした。三陸山田という場所。左折して道を進むと小さな旅館風の建物があり大きな字で「ゆ」と書いてある。風呂道具をもって中へ入る。宿泊客のいる完全な民宿だった。二階に上がると受付があり500円を渡して風呂へ向かう。脱衣場も小さくて湯船も3人入ればいっぱいというところだったが気分は最高。揚々と車へ戻った。
 なおも進む。途中宮古市のあたりのコンビニで弁当と酒を買った。そこでパックに入った「筋子の醤油漬け」が目に付いた。たっぷり盛られているわりには値段も安く400円。さっそく買って今夜のあてにすることにした。
 今夜の寝場所を探すのだが、なかなか適当な所がない。「みちの駅」なども無く困っていると、三陸町の峠道頂上付近にドライブインがあったのでここに止まった。トイレも新しくて広い。携帯電話のバッテリーが無くなっていることに気づきトイレで充電する。早速先ほど買った弁当を広げて食べた。しばらく腹の調子が悪かったのでまともに食べるのは久しぶりのような気がする。飯も食ったし酒も飲んだし、さあ寝ようとしたとき猫の鳴き声が聞こえた。外を見てみると子猫がこちらに向かって何か欲しいと泣いているではないか。あいにく残りは「酢の物」しかない。食べるだろうかと一切れやると、においを嗅いだだけでどこかへ行ってしまった。
(9月28日・6日目・食費1735円・コインランドリー400円・宮沢賢治館350円・風呂500円・ガソリン給油1回1755円・合計4740円)

 朝目覚めた時、隣に車が止まってることに気付いた。白のマークUだろうか、同じように車の中で泊まっているようである。しばらくすると起き出してきた。60才を遠に越えた老人である。彼も又、車で一人旅をしているのだろうか。
 リアス式海岸で有名な三陸地方。車を走らせながら美しい景気を見る。そうすると突然携帯電話か鳴った。出たのは母だった。「どうしてたのあんた」と第一声。何度かけてもかからないのでどうしたのかと思ったということだ。バッテリーが切れてそのままにしていたので、その状態もうなずける。突然、急用があるので明後日までに帰ってこいとのこと。ああ、せっかくの旅行に横やりが入った。
 その用というのもあまり楽しいものじゃないので急に落ち込んでしまった。気を取り直して先へと急ぐ。石巻市を越えて日本三景松島に着いた。歌にも歌われる瑞巌寺がある。大きな寺だ。そのあたりの雰囲気は人気観光地のそれである。駐車場に立つ人がこっちと手招きしている。京都に住む僕にとってこういう光景はへきへきしているので通り過ぎる。しばらく行くと左手に公園があったのでそこに車を止めて歩いて海岸へ出た。少し離れた所から松島一帯を眺める。転々と小さな島が散在する様はやはり日本三景といわれるだけあってとても興味深い美しい風景だった。そこから仙台に向けて道がじょじょに広くなり。車も見ている間に多くなってきた。渋滞する道を市街地へ入る。北の都といわれるように確かに仙台は大都市である。
 市街地を抜けて国道286号線を山形へと進む。
 2年前にも同じような旅で山形へ来た。この時は東京から太平洋側を通って仙台の手前より山形へ入りそのまま日本海方面、新潟へ抜けて帰ったので、今回は山形から内陸部を通って東京の北側をぬって帰ろうという思いである。
 以前の旅では山形の銀山温泉と山寺が印象に残った。特に山寺は今は無き藤子F不二雄の短編「山寺ラプソディー」を読んで是非とも訪れたいと願っていた場所であった。その情感は想像以上で深く感動したことを覚えている。
 山形市を国道13号線の方へ南に折れる。米沢市から121号線を進み喜多方市へ入った。今、喜多方といえばラーメンである。遅い昼食はラーメンにすることにした。蔵の街喜多方と書いてあるとおり。この街は古い土蔵が多く残る情緒ある街だ。蔵の形をした面白い車が走っていると思うとそれは客車で大きな馬が引っ張っていた。ラーメン屋に入ろうと思うのだがあまりに多すぎて迷ってしまう。ある一軒に決めた。「大三元」という店。女性が店長のようだ。この人美人なのだが、その身のこなしからしゃべり方まで意気のいい兄さんという感じ。ラーメンの大盛りを注文した。食べてみて「当たりだ」と思った。半ば観光地化されたラーメン村。味の方はどうだろうと疑っていたが、確かにうまい。それに食べたことのない麺の食感である。太くて縮れた麺。京都には無い味だ。満足して店を後にした。
 会津若松市街に入る手前を左に折れて猪苗代湖の方へと向かう。左手に磐梯山が見える。適当なところを右に折れると国道49号線。湖周を通る道に出た。風が強く湖面は波打っている。琵琶湖から始まり、八郎潟、十和田湖、田沢湖、猪苗代湖とこの旅は湖を巡る旅でもあると思った。明日中に帰ろうと思えばどのあたりまで行けばいいだろうかと計算して先へ進むことにした。国道121号線をただひたすら日光方面へ走る。右へ左のカーブが続く。暗闇の中、鬼怒川温泉郷を抜けて今市市へ、そして119号線を右へ曲がる。
 日光東照宮へ着いたのは真夜中だった。その前に有料駐車場があるのだが、今の時間、駐車ゲートは開いている。、そこに車を止めて寝ることにした。道を隔てた向かいには派出所の明かりが煌々とともる。
 思えばこの日はラーメンを食べた以外はほとんど車で走っていた。さすがに疲れてすぐに熟睡した。
(9月29日・7日目・食費1441円・その他150円・ガソリン給油1回1962円・合計3553円)

 夕べからの雨のせいか目覚めると窓ガラスは白く曇っていた。早朝6時。人影もまばら。顔を洗って東照宮の方へ車を進めた。道路に出てすぐ右折して商店と商店の間の細い道を昇る。石畳の道を右に折れ進むと。中央の参詣道へ出た。昼間なら車は通れない広い土道ををゆっくりと登っていく。左右には由緒のありそうな寺社が点在する。山門前に来た。石碑には金色の葵紋が貼られ大きな文字で東照宮と彫られいる。歩いて石段を登っていく。人一人いない。左手に赤い五重塔。しばらくいくとまたもや門である。ここからは拝観料がいるようだが早朝のため閉まっている。値段を見て驚いた。大人一人1500円。遊園地でもあるまいし、参拝客に吹っかけすぎである。と、ゆうわけで有名な「陽明門」は見逃したが戻ることにした。雨跡が石畳や周りの景色を光らせている。シンとした空気の中、一人歩く。
 119号線を西へと進む。道は122号線に変わり足尾町についた。町中を美しい清流が流れている。「銅山」で有名なこの場所も是非訪れたい所だった。
 例えば炭坑町の風景には共通した哀愁が流れているように思う。この町も同じような感覚を禁じ得なかった。貿易が盛んになり交通機関の発達した今の時代、鉱物原料は輸入が主となり国内生産は落ち込んでいる。その影響を受けて、昔隆盛を極めたこれらの町々も少しづつ勢いを削がれていった。
 足尾銅山の記念館に寄ったが、まだ時間が早いので開いていなかった。ふと見るとその横手に古い平屋の建物が立ち並んでいる。このあたりの工場で働く人の社宅だということだが、この町並みに足を踏み入れたとき身の震えるほどの郷愁を感じた。もともとはこの銅山で働く人の家だったのではないだろうか、それほど年限のたった家々である。もう誰も住まず廃屋のようになっている所もある。
 私は3才になるまで京都市の向島というところに住んでいた。記憶にはないが若い両親と平屋長屋に住んでいたそうである。爆発的な高度経済成長期の日本。そのときの町並みや空気を無意識に私は求めていたのではないだろうか。確かに、その初めて訪れた場所は幼き日の自分の住む時代が流れていた。夢の正体はさてはそういったところにあるのかなどど考えてみる。たしかにここもまた、私の夢の舞台なのだ。
 しばらく行くと左手に朽ちた煉瓦づくりの建物が立っていた。ガラスは割れ、鉄の部品が散在している。工場の廃墟かと思いきや電気のともる窓もあるのでまだ使われているのだろう。
 大正から昭和初期の建物は面白い。大正モダニスムの影響もあって機能美よりも装飾美を追求したものが多く、和と洋が遠慮なしに無節操に混じり合っている。京都にもそのような建物が多いが、私の一番記憶に残るのは「京都府立病院」のそれだった。今はもう新築されてその面影はほとんど残っていないが、子供の頃は広い病院のすべてがそのような興味深い建物だった。ある日祖母を見舞ったとき病院の中を見て回った。廊下、天井、柱、すべてがその時代を反映していた。赤札のかかる病室の隙間からベットが垣間見える。窓から外を見ると別棟の格子のはまった部屋からこちらを見ている人がいる。得も言われぬ恐怖感。異空間にさまよい混んだのではないかとさえ思った。
 町を抜けて次へと急ぐ。桐生市から前橋市へ。このあたりでラッシュに見まわれた。国道17号線を高崎市。朝食を取ろうとマクドナルドへ寄った。朝のセットを頼んでトレーごと二階席へ運ぶ、広い店内だったが二人ほどの客がいた。窓側の席に座ってコーヒーを飲む。外には交差点を行き交う多くの車。フッと一息。落ち着いた雰囲気を楽しむ。
 国道18号線を西へと向かう。妙義山という奇妙な形の山を見ながら走ると碓氷峠への分岐点についた。ここから多くの人は有料道路を通るのだが、あえて旧道を走る。険しい山道を登ると「旧碓氷線鉄道構造物」と書いてあったのでその方へ少し下るとその横にトンネルがポカリと口を開けていた。危険だから絶対に入るなと書いてある。それどころかこのあたりはあちこちに鉄道跡が残っている。しばらく行くと斜面の少し上に小さな橋脚が見えたので車を止めて登ってみた、線路跡が延々と続いている。この道を最初から最後まで歩いてみたいという誘惑にかられる。さほど鉄道好きでなくてもワクワクしてしまう。
 一番の圧巻は赤レンガで作られた大きな橋だった。はるか上を美しいアーチが山並みをぬって架かっている。偶然の旅は面白い。このような場所も違う道を通っていたなら出会うことはなかったろうから。
 峠を下ってしばらく行った所が軽井沢である。別荘地としてあまりにも有名なこの地だが、いったいどういったところなのかと少し走ってみると観光客でいっぱいのリゾート地という雰囲気。少しがっかりしたが、旧軽井沢と書いてある奥の方へ行くと、それまでの風景とは一変して落ちいた空間が広がっている。木々に囲まれた広い敷地に広い屋敷。よくテレビで見る高級別荘地の風景である。旧三笠ホテルと書いた趣のある建物を見て、軽井沢から離れた。                                                    広い道がどこまでも下へと続いている。軽井沢とは相当高地にあるのだと実感する。その下った先が小諸である。「小諸なる古城のほとり」の詩で有名なこの地、なぜか「とらさん会館」があった。ここから県道40号線を通って国道142号線へ。その道をひたすら進むと諏訪湖の北側に出る。
 ここからの道はもう私にとっては帰り道である。幾度となく通った道。国道20号線を塩尻方面へ少し北上し国道19号線を一気に西南方向へ進む。関西から関東へ車で行くとき。(高速を使うときは別だか)まっすぐ国道一号線を行くより。距離は相当長いが、この諏訪湖を経由して走るほうが時間も早いし、何より快適である。以前、富士、伊豆を巡ったときも、東京に来たときも諏訪湖経由で帰ったのを覚えている。
 ほとんど信号もなく快適な道を進む。土岐市から右折して21号線を行くと木曽川を越えて国道41号線と合流する。ここを左にとったあたりから少し渋滞する。この国道21号線は岐阜市の南と、大垣市街を縫って関ヶ原を通過し滋賀県米原で国道8号線と合流する。そこを左折。彦根から右折して琵琶湖湖岸道路に入る。旅の初めに通った道だ。本州東北部を大きく一周回ったことになる。この道をひたすら南下、琵琶湖の南端、瀬田南郷から流れ出るのが宇治川。その川沿いに走る宇治川ライン。その先が我が家である。
 帰宅する前に近くのスーパー銭湯へ寄った。入浴料500円だが健康ランドなみのお風呂が楽しめる。なんという気持ちよさ。一週間の疲れがじわじわと流れ出るようだ。湯船に浸かって考える。果たして旅の目的は果たすことができたのか。多くの所へ行った。多くの知らない場所が知っている場所となった。しかし結局、夢の所在はつかめなかったようだ。もしかすると、それは遠い場所にあるのではなくもっと近くて深いところにあるのではないか。銭湯を出て車に乗るといつもの見慣れた道。家へ帰る道。家人への言い訳を色々考えながら車を出す。ふと錯覚する。この旅もまた僕の夢ではなかったのか・・・と。
(9月30日・8日目・食費2919・風呂500・ガソリン給油2回1848+146・合計5413円) 

総計  距離4183q
経費33249円(内ガソリン14004円)
     燃費21.2q/l      

 


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